第1回の放送で、まひろ(のちの紫式部)の母を斬殺した藤原ふじわらのみちかね。もちろんこれはドラマのオリジナルストーリーです。ただ、道兼は同時代に成立した歴史物語『えいものがたり』でも、すでにダーティーなキャラクターとして描かれており、そこには理由がありそうです。

『栄花物語』(巻三)では、道兼を「御顔色しう、毛深く、ことのほかにみにくく(顔色が黒く、ひげが濃く、実に不器量)」と記しています。性格は「たいそうたくみで勇ましく、恐ろしいほど厄介やっかいで意地悪」。こうかつで大胆、冷酷で非情だったというのです。

いつも兄のみちたかを上から目線で注意していたとも記しており、道隆を「顔立ちも性格も優雅だった」と記すのと対照的です。おっとり型の長男・道隆に対し、承認欲求が強く、奥の手を使ってでも兄を超えることばかり考えていた次男・道兼というキャラクターは『栄花物語』以来のものでした。

これは、弟・みちながのクリーンさを際立たせるのが狙いでしょう。『栄花物語』は、道長寄りの作者が彼の栄花を歴史にのこす目的で創作した作品です。

史実では、道兼はそれなりに思いやりがあった人のようです。ざん天皇の時代、五位蔵人くろうど(天皇の秘書的役割の官人)の道兼は、六位蔵人の紫式部の父・ためときの上司でした。道兼は自宅で催した花見の宴に為時を呼び、為時は和歌をみました。

遅れても 咲くべき花は 咲きにけり 身を限りとも 思ひけるかな
たとえ遅咲きでも、咲くべき花は咲くのですね。この私も、もうわが身の出世などないと思っていたのですが。私もようやくひと花咲かせることができましたよ
(『後拾遺ごしゅうい和歌集』春147 藤原為時)

出世の遅い自分を遅咲きの桜に重ねた歌――。為時は感慨をおさえることができなかったのです。ただこの時、道兼はすでに父・かねいえのスパイという謀略を秘めて、花山天皇に仕えていました。

道兼には、為時の幸福がつかの間のものであることも見えていたでしょう。何も知らず手放しで喜ぶ為時を、あわれと思ったのではないでしょうか。花山天皇の時代が終わると、無官に逆戻りしてきゅうぼうを極めた為時。道兼は、そんな彼を自宅に招いて援助を続けます。

平安京の郊外、現在平安神宮のある岡崎地区から東に進んだ「あわぐち」という場所に、道兼は洒落しゃれた山荘を持っていました。そのふすまには名所の絵が描かれていましたが、道兼は為時に絵に合わせた漢詩を詠ませ、襖を飾りました。

現存する詩は、住吉大社の絵に合わせた「かいひんの​神しん」と、和泉いずみの国(大阪府南部)・玉の井にある山荘の絵に合わせた「玉の井の山荘に題す」(いずれも『本朝麗藻ほんちょうれいそう』所収)。為時以外にも数人の漢詩人が詩を作り、歌人が和歌を詠みました。道兼は彼らの文化的パトロンだったのです。

見方を変えれば、道兼は自分の派閥を作って文人・歌人を囲い込もうとしていたのであり、これもたくらみの一つと言えるかもしれません。『栄花物語』は、道兼が山荘を飾るさまを、世間は「姫君もいないのに将来の用意ばかりしている」と笑ったと記しています。らぬ狸の皮算用――。天皇に入内じゅだいさせる姫も生まれていないのに、姫を育てる環境ばかり整えているというのです。

しかしそれは用意周到ということ。批判するにはあたらないでしょう。『栄花物語』は、ことさらに道兼を悪く描いている感があります。『栄花物語』の作者にとって、道兼はそれだけざわりな存在だった――。別の言い方をすれば、道長の出世にとって壁となる兄だったということではないでしょうか。

道兼には幼名「福足君ふくたりぎみ」という息子がいて、ひどいやんちゃ者でした。永延えいえん2年(988) 、福足は祖父・兼家の60歳を祝ううたげで舞を披露する役になっていました。しかし、当日になって「嫌だ、舞いたくない」と髪をきむしり、装束をずたずたに引きちぎる始末。

道兼は青くなり、人々は遠巻きに見るばかりで手が出せませんでした。結局、伯父の道隆が立ち上がって一緒に舞ってくれたので場は何とか収まり、この一件は道隆の優しさを称賛する語り草として広まりました。

福足は、翌 えい元年(989)8月に幼くして亡くなりましたが、一つ遺したものがありました。道兼邸の庭のせせらぎに、菖蒲あやめを植えていたのです。道兼は翌年、その芽が出ていることに気付いて和歌を詠みました。

しのべとや あやめも知らぬ 心にも 長からぬ世の うきに植ゑけん
「これを見て思い出してくれ」というのか。何もわからぬ幼子なりに短い命をうらめしく思って、この菖蒲を植えていったのだろうか。
(『拾遺和歌集』「哀傷」1281 番)

嫌われ者でも父にとってはかけがえのない子。道兼の哀悼あいとうの思いがひしひしと伝わってきます。

なお、道兼の次男・かねたか(985~1053)は、紫式部と縁があります。紫式部の一人娘・賢子(のちの大弐だいにのさん)が、万寿まんじゅ2年(1025)ごろ、彼の子どもを産んでいるのです(下図)。

同じころ、東宮・敦良あつなが親王にも皇子 (親仁ちかひと親王)が生まれましたが、乳母が疫病にかかったため、その代わりに賢子が皇子の乳母となりました。その献身的な勤めが認められ、皇子が後年、冷泉れいぜい天皇となった時、賢子は朝廷から三位という位を授けられました。そのときに紫式部が生きていたら、きっと手を叩いて喜んだでしょうね。


引用作品:『栄花物語』…新編日本古典文学全集
     『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』…新日本古典文学大系

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。