今から1000年の昔の日本は、いったいどのような社会だったのか? 天皇や貴族たちの生活は? はたまた、ドラマに登場する紫式部や藤原道長たちはどのような人物だったのか? 時代考証を担当する倉本一宏氏に、最新の研究成果も交えながら解説してもらった(後編はこちら)。
戦もなく、人々が比較的豊かだった平安時代はもっと評価されていい
――「光る君へ」の時代考証を担当することになった経緯を教えてください
2022年5月に「光る君へ」の内田ゆきチーフ・プロデューサーからご連絡をいただき、作品の内容について相談を受けて、それに応えるという日々が続いていたのですが、そのうちにスタッフのみなさんからも相談を受けるようになって、正式に時代考証を担当することになりました。
お引き受けした理由は、平安時代史、当時の政治状況や後宮(天皇のきさきや女官たち)の情勢、人々の生活を、より多くの方に理解してもらえるきっかけになるかもしれない、と考えたから。ドラマはフィクションですからどのように描いていただいてもいいのですが、エンターテインメントに特化することで歴史学の常識をあまりにも逸脱してしまい、それが世の中に広がってしまうと研究者としてはちょっと困る(笑)。私が時代考証をやらせていただくことで、少しはその歯止めになるかなと思ったわけです。
ですから、各回の描写ごとに「この時代にはこんなことはなかったんですよ」などとお伝えしています。その意見を取り入れるかどうかはプロデューサーや大石静さんの判断ですので、それは自由にしていただいて構わないのですが、少なくとも脚本が出来上がる過程で、“際限ない”メールで何度か私の意見をお伝えしている、という状況です。
――大河ドラマで初めて平安時代の貴族層が主人公になるということについては?
平安時代が舞台の大河ドラマでは、1976年の「風と雲と虹と」、1993〜94年の「炎立つ」がありますね。その後も「義経」(2005年)や「平清盛」(2012年)が作られていますが、いずれも主人公は武者。つまり大河ドラマは戦を描くものであり、舞台が平安時代でもそうあるべきだと認識されていたと思うんです。
そこには「平安貴族は遊んでばかりいる」という“常識”があると思うのですが、私はかなり前からこの常識を否定しています。平安貴族が遊んでいるように見えるのは、その時代の文学作品に出てくる男たちが遊んでばかりいる(ように見える)からなんです。
『源氏物語』をよく読むと、光源氏はものすごい権力闘争をしているんですよね。しかも、あれは皇位継承の話でもあります。彼が恋愛騒動にうつつを抜かしているように見えるのは、物語を一面的に読んでいるから。私が学問的に専門にしているのは“古記録”といわれる男性貴族が書いた日記なのですが、それを読んでいると貴族の仕事がいかに大変かということが分かります。
おそらく、江戸時代の武士よりもずっと仕事をしていると思うんですよ。そういう姿を私はお伝えしてきたはずなんですが、いかんせん、研究成果を発表している専門雑誌や書籍の発行部数が少ないものですから(笑)、全然普及していません。
もうひとつの“常識”として、平安貴族は迷信深く、穢れや物忌(公事や神事にあたり、一定期間飲食やある行動を慎み、不浄を避けること)などちょっとしたことを恐れているというものがあると思うんですが、これも実は間違い。迷信深いというのは、彼らが自分に都合よく使っているだけなんです。
例えば「物忌だから今日は外に出られない」と言っておきながら、どうしても外に出ないといけない時には出ているんです。だから、言い訳に使っているだけ。昔の人は愚かで現代人は賢いというのは、全然違う。現代のような科学技術がないだけで、当時の科学の範囲内では精一杯冷静に論理的に動いていたこともお伝えしているつもりなんですが、こちらのほうはもっと普及していませんね。
平安時代というのは戦争がない時代。まあ、日本自体が7世紀の白村江の戦い*1から豊臣秀吉の朝鮮侵略に至るまで対外戦争をしていませんし、内戦も少ない。9世紀初めに蝦夷*2との戦争が終わってからは、大きな内戦はほとんど起こっていません。天慶の乱*3や、平忠常の乱*4も非常に小規模だと思っていますので、結局、平氏対源氏の戦いになるまでは、大規模な内戦が起こっていないんですよね。
*2 古代日本の東北地域に住み、中央政府に服さなかった人々
*3 10世紀半ばの、平将門や藤原純友の反乱
*4 11世紀前半に平忠常が安房・上総の国府を襲った戦乱
対外戦争もなく、大きな内戦もない平安時代というのは、すごくいい時代じゃないかと思います。日本の歴史の中で、そういう平和な時代は、平安時代と江戸時代。で、人間にとって何が大事かというと、戦争の恐怖がないことと、ちゃんとご飯が食べられるってことだと思うんですよ、最低限。
平安時代は、実は奈良時代よりもずっと豊かなんです。天皇から庶民、農民に至るまで。世間では「律令制が崩れて平安時代になりました、とんでもない時代でした。それを武士がうち破りました」と思われがちで、教科書にもそのように書いてあるのですが、私は平安時代の方がはるかにいい時代だったと思っています。
戦国時代のように問題を解決するために相手を殺す、首を持ってくるような時代と、戦いがないのんびりした時代、どっちが素敵なのか。そう考えながら、私は平安時代をもっと評価してもらいたいと思っているので、この仕事を続けているという次第です。
ドラマはドラマ、史実は史実として楽しんでいただければ
――「光る君へ」の脚本の印象は?
歴史の定説から外れないように大河ドラマ「光る君へ」の考証作業をさせていただいていますが、脚本はフィクションとしてはすごく面白くて、毎回感心しながら読んでいます。人間の感情、特に男女の恋愛感情はあまり史料には現れないですから、我々研究者は通常重視しないんですよね。歴史学は国文学の分野とはまったく違うので。
おそらく文学が好きな方から見ると、我々の論文は味気ない記述ばかりに感じると思います。そこへいくと大石静さんはラブストーリーの名手で、やっぱりすごいなと思うことが多々あります。私自身、大石さんが脚本を担当して桂枝雀師匠が出演されていた連続テレビ小説「ふたりっ子」(1996年度後期)が大好きでしたしね。
道長とまひろの心の綾や、道長に対する周りの男たちの感情の動きは、我々には絶対に書けない。いつも「ああ、そうなんだ!」と感心するんですよ。ただ仕事柄、これが本当に起きた話なのか?と言われると、そんなことないだろうという気はします。それが毎週映像化されて、視聴者の記憶に残るわけです。
ドラマで描かれている内容と史実で、明らかな違いはあります。例えば、まひろはかなり外を歩き回っていますが、それはほぼないでしょうね。物詣で(寺社への参詣)に行くことはあったみたいですが、とにかくあの家は父が無官で貧乏ですから、お金のかかることは多分ほとんどできなかったんじゃないかな。
また『紫式部日記』には、わりと内気な性格だったように書いてありますので、彼女が活発にあちこち出かけることはなかったと思います。名前がまひろだった証拠もありませんし、子どものころから藤原道長と知り合いだったということも、ほぼありえないのですけれど、それはまあドラマだから、しょうがないですよね(笑)。著作権は大石さんにあって、私が口出しできることではありませんので。
話が少し逸れますが、私は歴史上の人物の肖像画を、本に載せるのも反対なんですよ。ビジュアルとして目に入ってしまうと、それが焼き付いてそのイメージがどうしても離れなくなるので。源頼朝にしても織田信長にしても、秀吉にしても。
武田信玄は最たるもので、あの有名な絵は信玄の肖像じゃないと今ではわかっているけれど、信玄というと多くの方があの絵を思い浮かべるんですね。それはあまり良くないと思っているんですが、ましてドラマになってセリフをしゃべったりすることは、それが定着してしまう危険性を孕んでいます。
平安時代に興味を持っていただくのはとてもありがたいことですけれど、例えば「紫式部はああいう性格なのか」とか「道長ってこういう人なのか」、さらにその周辺の「藤原実資や藤原公任、藤原斉信、藤原行成は、こういう人だったのか」というのが世間の認識になってしまうと、我々の視点からするとちょっと困るなと思っています。
ですからドラマはドラマ、史実は史実として分けて楽しんでいただければありがたいですね。室礼(建具や調度品を置いて儀式の場を装飾すること)や衣装などは、その分野の専門家が考証されていて、かなり忠実に再現されていると思いますので、当時の暮らしぶりが伝わってくるはずです。
人の動きにしても、「戦国時代の女性のように勇ましく、パパッと歩いたりしないんだな」とか、そういうニュアンスもわかっていただけるのではないかと思っています。
男性の日記は“記録”。女性の日記は一般的に物語要素が強い
――先生が研究している平安貴族たちの日記について教えてください
平安時代の貴族たちが書いた日記には、藤原実資の『小右記』や行成の『権記』などがありますが、一般的に貴族社会で共有されていたものなんですね。自分の子孫だけでなく、求められたら写して人にあげる、というものです。道長が書いた『御堂関白記』だけは少し異質で、あまり人に見せない、直系の子孫だけに見せるために書いたものです。
逆に『小右記』なんかは、みんなから集まってきた情報を貼り付けて作っているんじゃないか?と私は思っているんです。つまり彼らは日記を書くことによって、儀式と政務の具体的なありさまを後世に残す、あるいは同時代に伝えるために書いていたと思います。
だから、本来は感情的なことを書いたりしないんですが、そこがやっぱり人間のおもしろさで、道長も実資も行成も、そのときの気持ちをわりと書きつけたりしているんですよ。そういうものを読み取る作業は、非常に面白いですね。
とくに『御堂関白記』は、道長の自筆本がそのまま残っているので、「ここでなぜこう間違えたのか」「ここはなぜこんな文章になったのか」「ここは考えていたのと違う字を書いてしまった?」という部分を、彼の脳内に入り込んで「次にこう書こうと思っていたのが先に来ちゃったのかも」など読み解いていける面白さがあります。1000年も前に生きていた偉い人たちと、気持ちが通じるところもありますね。
学問的に言うと、『御堂関白記』と『小右記』と『権記』が同時代のものとして残っているので、ひとつの出来事について三者三様に書いている。一人の日記では一面的にしか見えないところが、3人が別々に書いているものをつきあわせてみると、統合的に「あ、こういうことだったんだな」ということがわかる。
こういう史料の使いかたができるのは、“古記録”だけだと思いますね。公式の歴史書には公的な内容しか書いてありませんし、古文書というのは関係者の主張だけが書いてあることが多いので、古記録の面白さはそういうところにあると思います。
ドラマでは、道長はまだ『御堂関白記』は書き始めていません。したがって、考証するときに三者の記録を比べることはできないのですが、大石さんには「この場面は『小右記』ではこう書いてあります。それを取り入れたら、こんな面白いことが起こるんじゃないでしょうか?」などと申し上げたりしています。おそらく見る人が見たら、「あそこの場面はアイツが意見を言ったから、こうなったのかも?」とわかるかもしれません。
――一方、女性が書いた日記についてはいかがでしょうか?
女性たちの日記は、その多くがその日に書かれたものではありません。特に『和泉式部日記』や『更級日記』(作者:菅原孝標女)は、かなり年をとってから昔のことを書いています。
『蜻蛉日記』(作者:藤原道綱母)もそうなのですが、本当にその日そのことがあったかどうかは確定できないですし、自分に都合のいい物語として面白いように書いている可能性もあるので、男性の日記である古記録のようには扱えないですし、日記と呼ぶにはちょっとためらいがありますね。国文学でも、最近は『和泉式部日記』ではなく『和泉式部物語』と呼んでいる方もいるようです。
ただ『紫式部日記』の、一条天皇の中宮彰子のお産の記録の部分だけは別です。それは道長から命じられて書いたからだと思うのですが、かなり詳しく正確に書いてあって、しかも男が入れない場所のことも仮名で書いています。男の日記では表せないような細かな感情も記されていますので、あれは第一級の史料だと考えています。
また清少納言が書いた『枕草子』の中に日記的な部分がずいぶんありますので、それもおそらく本当にあった話なんだろうと思いますし、史料として使えるだろうなと感じています。
後編に続く