大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部は「まひろ」という名で呼ばれています。この名は番組のオリジナルで、彼女の本名は分かっていません。かつては「藤原香子」との説もあったのですが、今は否定されています。

ここで、平安貴族の名について整理しましょう。名には、本名と通称があります。本名はその人だけを指す固有名詞ですが、通称は家族内の立場を表す普通名詞です。ドラマ内で、まひろが藤原道長を呼ぶ「三郎」は、彼が三男であるという通称です。女性の場合、長女は「大君おおいきみ」、次女は「なかの君」、三女以下は「さんの君」など数字を付けて呼ばれます。

また、本名には幼名ようめいと成人後の名がありました。例えば、幼名「牛若丸うしわかまる」が元服して「みなもとの義経よしつね」となったことは、よく知られていますね。

幼名は、家族の間で呼ばれる固有名詞です。男子の場合、元服後に貴族社会にデビューすると見越されていたからか、幼くして史料に記されることがありました。

例えば道長の日記『御堂関白記みどうかんぱくき』には、「田鶴たづ」が病気になったと記されています。彼の長男で後に関白となり、現在の宇治平等院を建立した藤原頼通よりみちです。

姫君の幼名が記されることはめったにありませんが、珍しい例として知られるのが、藤原実資さねすけの日記『しょうゆう』に記された娘の名「千古」です。彼はこの娘を溺愛し、莫大な財産を残らず相続させると決めました。その日記が書かれたとき、彼女はまだ幼い子どもでした。

『小右記』を書いた藤原実資(秋山竜次)

ただ、彼女の本名が書かれているのはこの一度きり。5年後に女子の成人式・裳着もぎを行ったときも、やがて結婚したのちにも、実資が記しているのは「小女」という通称です。ちなみに、この実資の娘は歴史物語『大鏡おおかがみ』にも登場しますが、そこでも「千古」ではなく、「かくや姫」――「輝く姫」というニックネームで呼ばれています。

千古が成人しても大人の名で記されていないのは、社会と関わらないうちは家族から幼名で呼ばれ続けていたからでしょう。「光る君へ」の主人公「まひろ」という名は、この千古と同じものだと考えてください。

成人後の本名(固有名詞)は、公文書に記す正式な名です。貴族社会の男性は元服すると官人として朝廷に仕えるので、公的な名が必要です。女性の場合も同じで、道長の長女・彰子は成人して一条いちじょう天皇と結婚したので、公人としての名を持ったのです。

同様に、道長の妻・源倫子は左大臣の妻として朝廷から官位を与えられ、道長の長兄・道隆みちたかの妻である高階貴子は女官として朝廷に仕えたので、正式な名を持っていたのです。

右から、源倫子(黒木華)、その母・藤原穆子(石野真子)、穆子の女房・ 赤染衛門(凰稀かなめ)。

成人女性の本名は「○子」の形を取りますが、じつは読み方のわからないものがほとんどです。わずかに読み方がわかっている例として、陽成ようぜい天皇の母・藤原高子の「たかいこ」、清和せいわ天皇の母・藤原明子の「あきらけいこ」があります。

これでは、ほかの女性名の読み方など特定できません。お手上げなので、教科書などでは仮に「しょう」「てい」などと音読みを当てているのです。こういう背景から、当コラムではあえて女性名の読み方は記さないことにしています。

なお、現在のママ友同士で呼び合う「●●ちゃんママ」などに似た通称もあり、和歌の会などで必要な場合はそれが使われました。「□□の母」や「△△のむすめ」がそれです。『蜻蛉かげろう日記』の作者(ドラマでは藤原寧子/財前直見)は、「藤原道綱みちつなの母」、『更級さらしな日記』の作者は「菅原孝標すがわらのたかすえの女」と、教科書にも書かれていましたね。

古い時代、名はとても重い意味を持つものでした。『万葉集』の歌で、雄略ゆうりゃく天皇は女性に「名らさね(名を明かされよ)」とたずねますが、これは求婚の意志を示すものでした。男性の名も、みだりに呼ぶことは失礼に当たりました。『源氏物語』には、光源氏の本名は「源」という姓以外には記されていません。名が記されるのは、光源氏の従者の惟光これみつ良清よしきよなど身分の低い者だけです。

では、「紫式部」という呼び名は、いったい何なのでしょう。これは「にょうぼうめい」と言い、彼女がやがて彰子に女房として仕えたときの通称です。
こちらについては、またお話しすることにしましょう。

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。