始まりました2024年大河ドラマ「光る君へ」。1000年あまり昔の京――平安京を舞台に、これから紫式部の人生と恋が動き出し、ドラマチックな物語が繰り広げられていきます。

ところで、実在の紫式部は謎だらけの人物です。生没年も本名も分かりません。そんな中でももっとも謎なのが、紫式部の母についてです。ドラマ第1回、まひろの母・ちやは(国仲涼子)は藤原ふじわらの道兼みちかねの刃によって非業の最期を遂げました。でも、これは「光る君へ」でのお話。実際はまったく史料がなく、紫式部も母について一言も記していないのです。

紫式部は、『源氏物語』以外に『むらさきしき日記にっき』と『むらさきしきしゅう』という2つの作品をのこしています。『紫式部日記』は、職場であったちゅうぐう(天皇のきさき。皇后と同格)彰子後宮で起きた出来事を中心につづった職場ルポルタージュとエッセイ。『紫式部集』は、自分や周りの人々がんだ和歌を集めた和歌集です。

これらの中で、紫式部は自身の生活や人生、その時々の思いを語っていて、彼女を知る貴重な史料となっています。ところが、どちらにも彼女の母は全く登場しません。父やきょうだいは登場するのですが、母については思い出が記されないばかりか、存在にすらふれられていないのです。一体なぜなのでしょう。

考えられることは、紫式部が物心もつかないほど幼い頃に母と別れたのではないか、ということです。ならば離別か、死別か。離別ならば、別れても母は生きているので消息を聞くこともあるでしょう。

更級さらしな日記にっき』の作者・菅原すがわらの孝標たかすえのむすめには、実母のほかに、共に東国に下った継母ままははがいました。継母は上京後には父と離婚しましたが、その後も連絡を取り合っています。しかし紫式部にはそれもない。となると、やはり死別だろう、となります。

死別という憶測を後押しするもう一つの理由が、『源氏物語』です。主要な登場人物だけでも、幼くして母を亡くした人がどれだけ多いことか。主人公のひかる源氏げんじは3才で母と死に別れました。数え年の3才ですから、現在の満年齢では2才。場合によると1才ということもありえます。当然、彼は母の面影すら覚えていません。

ヒロイン・わかむらさきも同じで、10才の時には祖母と2人で暮らしていました。光源氏と最初の正妻・葵上あおいのうえの間の息子・夕霧ゆうぎりも、生まれて数日で母に死なれます。紫式部は、母がいない自身の境遇や心のありかたを、登場人物たちと共有しようとしたのではないでしょうか。

仮に死別とすれば、紫式部の母はどのようにして亡くなったのでしょう。当時は、疫病が何度も流行し、その度に多くの犠牲者が出ました。女性は、出産によって死の危険にさらされることもありました。紫式部の母は、きょうだいの惟規のぶのりが生まれた時に亡くなったのではないか、とも考えられています。ともあれ証拠がなく憶測するしかないのです。

『源氏物語』で光源氏は、ちちみかどの新しい女御にょうご(皇后・中宮に次ぐ夫人の位)・藤壺ふじつぼが彼の母によく似ていると聞くと、幼心地おさなごこちにも「あはれ」と感じます。「あはれ」とは「ああ」という感動の声だと思ってください。「ああ、藤壺様と一緒なら、母のいない寂しさが慰められるかもしれない」――そう思ったことから、光源氏の恋多き人生が始まったのです。彼の原点には寂しさがあったということです。

同じことを、私たちは紫式部の人生についても見出すことができるかもしれません。母のいない寂しさを、何とかして紛らわそうとした少女・紫式部。心の空洞を埋めてくれる存在は、別の家族だったのか、それとも他の何かだったのか……。ドラマでも、彼女の成長を、固唾かたずを飲んで見守りたいと思います。

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。