いろいろ困難な状況の中で、どうなってしまうのかと心配だった東京オリンピック。結果として、大きく盛り上がり、日本人選手の活躍もあって、多くの方が前向きに生きる勇気をもらえたのではないだろうか。

とりわけ、「無観客」という今まで経験したことのない環境がどのような影響を与えるのか懸念される中、テレビを通して伝わるアスリートたちの印象は、むしろ深みを増していたようにさえ感じられた。

無観客ということは、つまりは、競技場が一つの巨大な「スタジオ」になるということである。その中でこれまで気の遠くなるような練習を積み重ねてきたアスリートたちが、人生でもとびっきりの瞬間を迎える。挑戦する姿の真実が視聴者に感動を与えた。

もともと、オリンピックのリアリティは生の現実ではなく、撮影や編集、枠付けそして言葉の表現といった「放送文化」によって創造されるものである。その本質は無観客以前から変わっていない。NHKにとっても真価が問われるオリンピックだったと思う。

4年に一回の夏季オリンピック、ましてや一生に一度か二度の自国開催ということで、NHKの関係者、スタッフも、難しい条件の中で放送人として「勝負の時」を迎える思いだったのではないか。

今回、NHKは国立競技場のすぐ横に大きなガラス張りのスタジオを設置して、メインキャスター(私が見た時間帯は和久田麻由子さんがいらっしゃることが比較的多かった)の左側にベテランのスポーツ実況のアナウンサーを配置、右側にオリンピック出場やメダル獲得経験のある元アスリートの方が座られて、とても見やすく安定感のある配置だった。

スタジオでのトークは多角度からわかりやすく、また競技者の実感に基づいたものにしようという工夫が感じられた。とりわけ、ロンドンオリンピック金メダリストの柔道の松本薫さんが実演を交えて解説するシーンは身体性が立ち上がってよかった。

無観客という事態により巨大な「スタジオ」となった国立競技場や各会場にも、NHKと民放が一体となったジャパンコンソーシアムの一員として多くのNHKスタッフが入り、国際映像に加えて独自の映像を制作し、取材を重ねていたものと思う。競技場と特設スタジオが一体となって一つの放送体験が創られた。

毎日午後10時台や11時台に放送されていたNHKラジオ第1の「ダイジェスト&ニュース」も聞く機会が多かった。円熟したかしの木のような温かく落ち着いた声でその日の競技内容を伝えてくださるキャスターの仕事に魅了された。言葉を通して立ち上がり、定着する体験のリアリティがそこにはあったのである。

(NHKウイークリーステラ 2021年9月3日号より)

1962年、東京生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て、「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究。文芸評論、美術評論などにも取り組む。NHKでは、〈プロフェッショナル 仕事の流儀〉キャスターほか、多くの番組に出演。