皆さん、こんにちは。NHK放送博物館・館長の川村です。
ことしは例年より春の訪れが早く、放送博物館のエントランスを彩る桜が見事に咲いておりました(3月下旬)。



放送博物館のある東京港区・愛宕山は桜の名所としても有名で、江戸時代から庶民に親しまれてきました。ラジオの本放送が始まった1925(大正14)年当時も、きっと多くの人々の目を楽しませてくれていたことでしょう。

さて、今年で日本のテレビは放送開始70年を迎えました。(関連コラム)さらに、2年後の2025(令和7)年には「ラジオ放送開始100年」、つまり日本で放送が始まって100年という大きな節目を迎えます。そこで今回から“放送100年の歴史秘話”を当館の“お宝”とともにご紹介して参ります。

第1回は、NHK放送博物館が建っている、ここ「愛宕山」の歴史を改めてご紹介したいと思います。愛宕山は日本で初めてラジオの本放送が発信された地として放送100年の歴史を語るうえで重要な場所です。まずは、愛宕山の場所と地形を地図から見ていきましょう。

国土地理院地図でみた愛宕山周辺 オレンジ色の丸の中がNHK放送博物館のある場所

地図上の赤い線で囲まれた場所がNHK放送博物館と愛宕神社がある愛宕山です。東に1kmほどいくと旧浜離宮庭園があり、東京湾までほど近いところに位置していることがわかります。いまから100年ほど前は海岸線ももう少し内陸部だったことに加えて高い建物がなかったので、間近に海を臨む大変眺望の良い景勝地だったことがわかります。

ちなみに愛宕山は標高約26mで、東京23区内の自然地形では最も高い場所です。古くからこの地は愛宕神社の参詣とあわせて景勝地として栄えてきました。実は東京放送局がこの地に建てられる前、ここにはこんな建物が建っていました。↓

モダンな洋館と塔が建っています。これは1889(明治22)年に建てられた「愛宕館」と展望台の「愛宕塔」という施設です。「愛宕館」はレストランを備えた宿泊施設、「愛宕塔」は売店を兼ねた展望塔でした。写真で分かる通り「愛宕塔」は5階建てで、港区郷土資料館の資料によると高さは30mもあったそうです。

「愛宕館」と「愛宕塔」はモダンな外観も相まって人気の観光施設でしたが、1923(大正12)年の関東大震災のために倒壊してしまったため、震災後に取り壊されました。

建設中の東京放送局 撮影日不詳

跡地に建てられたのが初代の東京放送局・JOAKの局舎です。日本のラジオ放送は関東大震災で正しい情報が伝わらなかったという教訓から放送を求める声が高まったことにより始まりましたが、放送局の立地も震災と深いつながりがありました。

ここまでは100年前に東京放送局ができるまでのお話。
では、さらにその前、明治から江戸期の愛宕山はどんなところだったのでしょうか。江戸末期から明治にかけて描かれた浮世絵の中の愛宕山を見ると、いかにこの場所が古くから観光地として栄えてきたかがわかります。ここからは浮世絵で描かれた愛宕山をご紹介しましょう。

東京開華名所図絵之内 芝あたご下 歌川広重(3代)1876年

これは三代広重による明治初期の愛宕神社を描いた作品です。ふもとから山頂までいっきに登る「出世の石段」は多くの参詣客でにぎわっています。石段の上部には桜が咲いているのも見えますね。愛宕山は都内を代表する観光地のひとつでした。

東都芝愛宕山遠謀品川海 昇亭北寿 画

こちらは葛飾北斎の弟子、曻亭北寿しょうてい ほくじゅが描いた江戸末期の愛宕山の遠景です。
ふもとには海が迫っており白波が立っていますね。現在の新橋駅周辺は江戸初期に埋め立てられた場所で、この当時は、海岸線が愛宕山に近い位置にありました。明治になって海岸沿いに鉄道が開通し、『鉄道唱歌』の1番の歌詞にも愛宕山が歌われています。

東都名所 芝愛宕山上之園 歌川広重

初代歌川広重も愛宕山の風景を多く描いています。この作品では愛宕神社の近くに東屋が並んでいる様子が描かれています。また背景には東京湾に浮かぶ船も見えています。このように愛宕山が江戸有数の絶景の場所だったことがわかります。

「アタゴ山」小倉柳村

こちらは明治時代の木版画家・小倉柳村の作品です。柳村は浮世絵の流れをくむ洋風の木版画を得意としていました。時代はだいぶ新しくなり、1881(明治14)年ごろの様子なので既に街灯も設置されています。ここはおそらく現在のNHK放送博物館の駐車場のあたりではないかと思われます。

こちらは歌川国利の「愛宕山 山上より海上みはらし」という1890(明治23)年の作品です。満開の桜並木の後ろに愛宕塔が描かれています。観光名所だった当時の愛宕山の様子がよく伝わってくる作品です。

浮世絵を通じて愛宕山の歴史を見てきましたが、前述の通り関東大震災で愛宕館と愛宕塔が倒壊した跡地に東京放送局は建てられました。ここが選ばれた理由は、愛宕館の跡地が利用できたこともありますが、何よりこの地が東京都内(当時の東京市)でも有数の高台だったことにあります。

東京放送局の局舎とアンテナ 1936(昭和11)年12月撮影

標高が高いことで、放送の電波をより遠くまで送ることができたのです。この写真に写っている2本の鉄塔が送信アンテナを架設した送信塔です。ちなみにこの送信塔は後に東京タワーをはじめ通天閣、名古屋や札幌のテレビ塔など昭和のタワー設計を数多く手掛け、「塔博士」と呼ばれた建築家・内藤多中が設計しました。芝浦の仮放送所での試験放送開始から4か月後の1925(大正14)年7月、ラジオの本放送はこの地から始まりました。

愛宕山の東京放送局局舎 1939(昭和14)年5月

その後1939(昭和14)年に内幸町に新しい東京放送会館ができるまでの14年間、ラジオはこの愛宕山から全国に向けて放送されました。

現在、虎ノ門ヒルズをはじめ、麻布台周辺の再開発で超高層ビルが立ち並ぶ愛宕山界隈ですが、NHK放送博物館のある山頂は今も緑に囲まれた都会のオアシスのような場所です。
ぜひ、四季折々の草木とともに、放送100年の歴史をNHK放送博物館で体感してみてください。皆さまのご来館を、心よりお待ちしております!


コラム「放送百年秘話」は、月刊誌『ラジオ深夜便』にも連載します。
第1回は、5月号(4月18日 定価420円)に掲載。こちらもどうぞお楽しみに!
▼5月号の掲載予定はこちらから
https://radio.nhk-sc.or.jp/j_next.html


(NHK放送博物館)
https://www.nhk.or.jp/museum/index.html
(アクセス)
https://www.nhk.or.jp/museum/sp/access/index.html