NHK放送博物館の川村です。今年は太平洋戦争終結から79年。1945年8月15日正午にラジオから流れた昭和天皇の肉声は玉音と呼ばれ、その放送は「玉音放送」として歴史に刻まれています。

当館にはこの時録音されたレコード盤、いわゆる「玉音盤」7枚が宮内庁からの寄託を受け保存されています。そのうちの1枚は3階ヒストリーゾーンでご覧いただけるように特殊な保存ケースの中に展示しています。今回はこの玉音盤が作られた8月14日、終戦前日までの4日間をたどっていきます。

展示中の玉音盤のうちの1枚。劣化を防ぐため摂氏0度前後に保たれている。

玉音盤とは

玉音盤は全部で12枚あることが確認されています。当館で保存している以外の5枚は現在も宮内庁が保管しています。枚数が多いのは、この当時は1枚のレコード盤には2~3分の音しか収録できなかったことによります。

詔書を全部読むとおよそ5分近くかかってしまうため、収録機を複数台使用して1回の収録で2~3枚のレコードが作られたのです。また昭和天皇は1回目の収録の後、「声のトーンが低かったのでもう一度やろう」とおっしゃったため収録は2回行われています。

現在私たちが耳にする玉音放送はこの2回目に収録したものです。

玉音放送の録音場所配置図(当館展示)

さて、この玉音放送の収録は1945年8月14日の午後に、当時の宮内省2階で東京放送局から持ち込まれた4台の収録機によって行われました。この時収録に使用されたものと同型機も、当館で展示されています。

電音DP-18B-A型というこの円盤録音機は国立科学博物館が認定している「重要科学技術史資料」(未来技術遺産)の一つに登録されています。

電音DP-18B-A型円盤録音機。通称テレフンケン型円盤録音機と呼ばれる。

ポツダム宣言受諾と放送

ところで玉音放送を行う根拠となったポツダム宣言受諾の方針は、この年の8月10日未明の御前会議で決定していました。これを受けて同日午後には連合国各国に対して宣言受諾を通達しましたが、問題はこれをいつどのように国民に周知するかでした。

この方針をめぐって閣議は紛糾します。最終的な折衷案として、国民には終戦が確定するまでに放送を通じて少しずつ宣言受諾の雰囲気を作っていこうということになりました。

まず8月10日の午後4時30分、当時の内閣情報局の下村海南総裁が「1億国民にありても国体の護持のために、あらゆる国難を克服していくことを期待する」というきわめて抽象的な表現の談話を、放送を通じて発表します。

その一方でこの日、同時に阿南惟幾陸軍大臣は全軍に向けて最後の一兵まで戦いぬくことを強調した「陸相布告」を行っており、混乱が生じていました。

内幸町にあった東京放送会館(1939年)。

この日の午後7時のニュースを前に、千代田区内幸町の東京放送会館2階の報道部に抗戦派の陸軍将校が押し掛け、阿南大臣の「陸相布告」を最優先に扱うよう強要します。

結果的にこの圧力によって午後7時のニュースは「陸戦布告」をトップ項目にし、「情報局総裁談話」を次の項目にして放送し、午後9時のニュースでは項目順を入れ替えて放送するという苦肉の策をとることになりました。

こうした混乱の中、当時の日本放送協会の海外放送「ラジオトウキョウ」ではポツダム宣言受諾のニュース速報を流し、放送に先立って同盟通信社からはモールス通信によって連合国側に打電され、日本の降伏は時間の問題となっていました。

当館ヒストリーゾーンの玉音放送関連展示コーナー。

その日、8月14日

ただこの段階でも閣議は紛糾し、正式な宣言受諾の方針は決まりません。この状況に日本は回答を故意に送らせていると判断した連合軍は再び関東地方に激しい空襲を行うとともに、東京上空からすでに降伏に向けた交渉が行われている旨のビラをまいたことで、東京都民は終戦が近いと知ることになりました。

この時点で、戦争継続を主張する一部の陸軍将校たちは、非常手段に訴えてでも宣言受諾を阻止しようと動き始めていました。そして14日の午前10時50分、緊急の御前会議が宮中の防空壕内の会議室で開催されます。

この御前会議で、最終的に昭和天皇はポツダム宣言を全面的に受諾し、詔書を天皇自らが直接ラジオを通じて国民に向けて読み上げることを決断しました。

これを受けて、情報局 から日本放送協会へ、天皇の「終戦の詔書」の読み上げは録音で行うことになったので準備をしてほしいとの連絡が入ります。

ついては午後3時までに皇居に来るように、との連絡を受け、当時の日本放送協会の大橋会長以下技術職員5人を含む8人が、録音機材を宮内省から来た車2台に積んで、東京放送会館から皇居へと向かいます。

玉音放送収録に使用されたものと同型のマイク「マツダベロシティマイク」(当館展示物)。

収録場所は皇居内の宮内省2階の政務室に設けられました。録音班は午後3時半には機材のセッティングを終えて、あとは収録を待つばかりでした。しかし一向に天皇はお出ましにならず、時間は刻々と過ぎていきます。

この間、閣議では既に起草された詔書案の文言について議論が沸騰していました。度重なる文言の修正の末、最終的に終戦の詔書が出来上がったときには、すでに午後11時を回っていました。これに先立ってラジオでは、翌15日の正午から重大放送がある旨の告知放送が行われています。

そして午後11時20分過ぎ、昭和天皇が軍服姿で政務室に入り、ついに玉音放送の録音が始まりました。そして前述の通り録り直しの2回目の録音が終了し、陛下が退室したのは日付が変わる直前の午後11時50分でした。

こうして録音された12枚の玉音盤は宮内省事務官室に保管され、戦争継続を主張する陸軍兵士たちの捜索の難を逃れました。そして15日の正午に玉音放送は予定通り放送され、日中戦争以来300万人以上の命が失われた戦争の時代は終わりました。

この激動の1日を含めた終戦に向けた軍部・皇室・放送局員の記録は、半藤一利氏の代表作『日本のいちばん長い日』に描かれています。日本の長い1日へと続く4日間は、放送局員たちにとっても長い緊張の日々だったのです。