NHK放送博物館の川村です。

これまで放送100年の歴史を振り返ってきました。今回はそれぞれの時代の中で「次の時代の放送サービス」を目指して取り組んできた、技術開発史をのぞいてみようと思います。ただし、本流の開発史では「秘話」らしくありませんので、ここでは「なんだ? これは!?」という、ちょっと一味違う、クセのあるものを選んでご紹介します。


もう1つのテレビジョン~機械式テレビジョン

ラジオ放送が始まった1925年の翌年、1926年12月に浜松高等工業学校の研究者だった高柳健次郎氏は、世界で初めてブラウン管に映像を映し出す電子式テレビジョンの実験に成功しました。

今ではすっかり忘れ去られたかのようなブラウン管ですが、この当時はレーダーや検査器具として、電子信号を画像として映し出す画期的な器具でした。これに動画としてのテレビジョンの映像を乗せようという研究は世界中で行われていましたが、その中で高柳氏は世界に先駆けてブラウン管に映像を映し出すことに成功しました。

当館で展示している「高柳式テレビジョン」実験機の復元模型(現在はスライドによって映像を再現)。

実はこの「ブラウン管式」以外の方式で映像を映し出す方法を考えていた研究者たちがいました。高柳式の開発の2年後に、早稲田大学の山本忠興氏、川原田政太郎氏らの研究者が開発したのが「早稲田式テレビジョン」です。

こちらは映像を映し出す装置にブラウン管ではなくスクリーン投影という方法をとりました。高柳式の「電子式テレビジョン」に対して、この早稲田式のテレビは「機械式テレビジョン」と呼ばれています。こちらは映像を撮影する仕組みまでは同じ(ニプコー円盤という回転盤を使用する)ですが、映像を映す側には回転する鏡を使用してその反射した映像を大型スクリーン上に投影するというものでした。

実際に早大野球部の紅白戦の中継実験を行うなど、実用化に向けた研究が進められました。当時は大画面に鮮明な映像が映し出されることで大きく評価されましたが、この方式では走査線を増やして解像度を上げることが困難だったこともありテレビは電子式に集約されていきました。

早稲田式テレビジョンの実験機(『20世紀放送史』より)。

しかし、日本の研究者はこのように2つの方式でテレビジョンの実用化研究に大きな功績を残していたのです。なお、早稲田式テレビの実験機は東京・上野の国立科学博物館に今も展示されています。


ステレオ放送の始祖~「立体放送」って??

この時代から時はだいぶ経ち、太平洋戦争後の1952年、画期的な放送が始まりました。それが「立体放送」です。「立体」とは、ステレオ音声のこと。この年、NHKのラジオ第1放送と第2放送の電波を使って、立体放送が始まりました。

その仕組みはいたって簡単なものです。ステレオ音声の左チャンネルを第1放送で、右チャンネルは第2放送で送信し、2台のラジオをそれぞれの周波数にあわせると受信側ではステレオ音声が聞けるというものです。ラジオを2波持っていたNHKならではの放送ですが、実はこの「立体放送」に対して、当初NHKは乗り気ではなかったといわれています。

最初に「立体放送」に関心を持ったのは民放局の「ニッポン放送」と「文化放送」でした。NHKに先駆けて、もともと民放の系列局であるこの2局が協力し、「立体放送」の実現に向けて動き出すとNHKも「立体放送」に乗り出したと言われています。この「立体放送」は聴取者から好評で、NHKでは1952年の実験放送の後、「立体音楽堂」という番組をスタートさせ、1954年から1966年まで放送していました。

「立体音楽堂」録音風景。1963年、東京放送局301スタジオ調整室にて(FMステレオ放送との同時放送時代)。

なお、民放局も1959年から東京ではニッポン放送と文化放送の2局がそれぞれ右チャンネル、左チャンネルを送出して「立体放送」を開始します。大阪では、系列ではないライバル局である「朝日放送」と「毎日放送」がそれぞれ左チャンネル、右チャンネルを担当して定時番組の放送を始めています。

その後、FM放送が実用化されると、AM(中波)での「立体放送」は徐々に縮小し、1960年代後半に放送を終了しました。画期的とはいえ、何しろ受信側ではラジオを2台用意する必要があるため、いろいろと不都合があったのではと推測できます。実は2重放送用に設計されたラジオも市販されていました。

「立体放送」受信のために、左右対称のデザインのラジオも開発された(日本ラジオ博物館収蔵品)。

2台一組で、それぞれ同じデザインで右チャンネル用の受信機はAM、FMの2バンド受信が可能で、左チャンネル用はAM専用になっていました。いずれにしても今になってみればかなりの力技の技術ですが、まだステレオレコードもない時代にこうした挑戦的な放送に尽力した先人がいたのです。


それでもあきらめなかったAMステレオ放送

さらに時は流れて1990年代後半、AMラジオは再びステレオ放送に乗り出します。ここでは難しい技術的なお話は省略しますが、今度は1つの電波にステレオ信号を乗せて送出するので、専用の受信機さえあればラジオを2台用意する必要はありません。AMステレオ放送は「立体放送」のような音楽番組を目的にしたものというよりは、中波局最大の人気コンテンツだった野球中継などといったスポーツ中継の臨場感を高める放送として大きな期待を寄せられました。

しかし、残念ながらこちらも定着しませんでした。それはNHKがAMステレオ放送に踏み切らなかったことが1つの理由と言われています。ステレオ放送用に送信所を全国に整備するには膨大な建設費が必要となり、公共放送のサービスとしては適切な投資ではないとの判断があったそうです。また、NHKにはすでにステレオ放送を行っているFMの全国ネットワークがあり、あらためてAMをステレオ化する必要性は低かったとも言えます。

AMステレオ放送は、1992年に在京の民放3局と在阪民放2局の5局でスタートしましたが、当初のもく論見ろみほど全国的に普及することはなく、最終的に全国民放16局のみで提供されました。それにはNHKが実施しなかっただけではなく、受信機がモノラルラジオに比べて高価だったこと、AMステレオ放送に対する一般聴取者のニーズが想定していたほど高くなかったことも理由だったと考えられています。

現在、ラジオはAMからFMへの移行が進んでいるほか、radikoによって聴取スタイルが大きく変わっています。ただ、現在でも、「ラジオ大阪」と「和歌山放送」ではAMステレオ放送を継続しています。放送サービスとしては主役になれなかった中波のステレオ放送ですが、デジタル化とFM放送の移行の中で、発展的に姿を変えてその理念は生きていると言えるでしょう。


高画質アナログテレビ~クリアビジョン

最後にご紹介するのは、「クリアビジョン」です。こちらも、NHKは採用しなかった放送技術。まだアナログ放送だった時代に、NHKが開発を進めていたハイビジョンに対抗する形で、民放が中心となって開発した高画質テレビ(EDTV)の方式「クリアビジョン」です。

こちらはハイビジョンのように伝送経路から全く新しいシステムにするのではなく、送信側と受像機側の改良によって既存の525本の走査線によるNTSC方式のテレビの映像をより鮮明にする技術として開発されたものでした。

当館所蔵品の34インチクリアビジョン対応テレビ(東芝 1989年製)。

そのため既存のテレビと互換性があり、送信側・受信側とも大きな負担をすることなく、高画質な画像を実現する次世代のテレビとして期待が寄せられました。ただその後、国の方針として地上デジタルが採用されることになると、アナログ放送である「クリアビジョン」は活躍の場を失うことになりました。

「クリアビジョン」が放送されていたのは、1989年からアナログ放送が廃止された2011年までと短い期間でしたが、日本独自の高画質のテレビジョン技術開発史の中でその役割は小さくなかったのです。

ここまで見てきた、今では消えてしまった当時の最新技術の数々は、今の放送の中に少なからず生かされています。