社会や風俗を風刺する戯作者として活躍した山東京伝(北尾政演まさのぶ)。蔦重の「耕書堂」から数々の“黄表紙”、“しゃぼん”を刊行したほか、絵師として自らの作品に挿絵を描き、煙草たばこ入れの店を開けば、商品を自らデザインして繁盛させるなど、マルチな才能を発揮しました。
今回の「『べらぼう』の地を歩く」は山東京伝ゆかりの地を訪ねます。

※この記事はNHK財団が制作する「『べらぼう』+中央区」や「『べらぼう』+台東区」のための取材などをもとに構成しています。


生誕の地・木場

京伝は宝暦11年(1761)、質屋の長男として深川木場(現在の江東区木場)で生まれました。蔦重より11歳ほど年下ですね。本名は岩瀬さむる。この地で13歳まで過ごしています
“木場”とは木を置く場所のこと。当時の木場は多くの材木商が集まる、江戸隋一の材木市場でした。市場の周辺は岡場所と呼ばれる、幕府非公認の遊郭や料理屋などで大いににぎわっていたといいます。
ここで材木商として莫大ばくだいな富を築いた豪商、紀伊きのくにぶん左衛ざえもんは広く知られていますね。

“都立木場公園”の看板

写真は、江東区木場4~5丁目付近。左に見える「都立木場公園」には当時、大きな貯木場がありました。このあたりで京伝は生まれ育っています。

木場公園 緑の水路

木場には木材などを運ぶために縦横に張り巡らされた水路がいまも残っています。上の写真は木場公園の縁の水路です。


使い続けた机

京伝は数えで9歳の時に、深川木場から2km弱ほど離れた深川伊勢崎町(現在の江東区清澄2・3丁目、清澄庭園の南)あたりの御家人のもとに文字を習いに通いはじめます。そのときに父が与えた机を生涯愛用したとされます。

その机にまつわる碑が、台東区の浅草寺にあります。

机塚の碑

浅草寺の一角にある京伝の「机塚の碑」。
京伝が亡くなった翌年の文化14年(1817)に弟の京山が建立したものです。
長い年月にさらされ、はっきりと読む事はできませんが、碑の表面には、数々の戯作をこの机で書いたことや、“50年近く使った机がゆがみ、老いてしまったのが哀れだ”などと記されているそうです。

碑の裏面の文字。

碑の裏面には、京伝を大いに引き立てた狂歌師・大田なんによる京伝の略歴が刻まれています。表面に比べて、この裏面は文字がはっきりしています。


安永2年(1773)、京伝は13歳のとき、京橋のたもと付近(現在の中央区銀座1丁目2番あたり)に移り住みます。その2年後の安永4年、北尾重政しげまさに弟子入りして浮世絵を学び、画号を“北尾政演”としました。

ここからは、中央区教育委員会の学芸員、増山一成ましやまかずしげさんに案内してもらいましょう。

——江戸時代、ここはどんな場所だったのでしょうか。

増山さん 江戸時代には京都へ至る五街道の一つ、東海道の道筋にあたる場所で、「京橋」は日本橋に次ぐ2番目の橋にあたります。なお、江戸時代、京橋は「橋名」であって、町としての名前ではありませんでした。

「京橋の親柱」。橋が撤去された後も、記念碑として保存されている。

増山さん このあたりには、当時、人工的につくられた京橋川が流れ、京橋が架かっていました。この「京橋の親柱」は、明治8年に石造アーチ橋へと架けかえられた時の欄干の一部です。ちなみに、親柱上部には格式の高い橋に用いられる擬宝珠ぎぼしと呼ばれる宝珠の飾りが見られます。

広重『名所江戸百景 京橋竹がし』国立国会図書館デジタルコレクション

増山さん 江戸城の外堀につながっていた京橋川沿いは、舟で運ばれてくる物資の荷揚げや取引の市場などに利用された河岸地かしちが発達していました。河岸の名は取り扱うモノにちなんで、竹河岸や大根だいこ河岸(青物市場で特に大根の入荷が多かった)などと呼ばれていまして、このあたりは大変賑わっていたようです。

——京橋川はどうなったのでしょうか。

増山さん 昭和の高度経済成長期に埋め立てられ、現在はビルが立ち並び、高速道路が走っています。


繁盛した店、京伝の商才

京伝は黄表紙や洒落本作家として、また浮世絵師として大活躍するのですが、松平定信の時代、寛政3年(1791)、風俗を乱す本を取り締まる法に触れ、処罰されます。両手首に鎖をはめる“手鎖てぐさり”50日、という見せしめのような刑でした。

その後、京伝は吉原の遊女であった妻を亡くし、同じ年に店を開きます。

増山さん 京伝は33歳の時に、「京橋」のすぐ南、いまの銀座1丁目8番の北側あたりに煙草入れの店「京屋」を開いています。煙草入れの店とはキセルや煙草入れ、つまり、煙草を入れるポーチのようなものなど、様々な喫煙グッズを売る店ですね。

——当時、その店の周囲はどのような様子だったのでしょうか。

増山さん 当時は「新両替町」といいまして、両替屋を中心とする町でした。実のところ、江戸時代に、いまの銀座周辺の様子を描いたものはほとんどないのです。おそらく、周辺には小間物屋から道中土産など東海道の道筋らしい店が立ち並んでいたのではないかと思います。

いまの銀座1丁目8番の様子 このあたりに京伝の店があった
「山東京伝の店」喜多川歌麿筆 東京国立博物館蔵 出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

——歌麿などが描いた京伝の店を見ると、繁盛している様子がうかがえます。

増山さん 高級紙や革などの素材を使った新しいデザインの煙草入れを自ら作って商品化してみたり、キセルの小売りから薬・化粧品まで、扱う商品も幅広く手がけています。さらには、文字や絵に隠された意味を当てる謎解き=“判じ物”で、包装紙兼“引き札”つまりチラシを作ったところ、これがまた話題を呼んで、引き札の謎解き目当てに煙草入れを買い求める客が増えて売れた、というエピソードもあります。アイデアあふれる、粋で洒落っ気たっぷりの京伝の才覚がうかがえますよね。

——京伝は筆を折り、商売に専念したということでしょうか。

増山さん いえいえ、京伝は煙草入れの店に引っ込んでしまって作家をやめたのではなく、自身が手掛けた黄表紙などにも京屋の宣伝広告を入れ込むなど、むしろ積極的に活動しているのです。

京伝は寛政の改革で処罰されたことにもめげるどころか、進化していったのですね。


最後に面白いエピソードをひとつ。当時、飲食代はだれか1人がまとめて払うことが一般的でしたが、京伝は、参加者が均等に支払う、いわゆる割り勘を徹底したといいます。それは「京伝勘定」と呼ばれることになったそうです。
「べらぼう」では、ちょっと“チャラ男”っぽい感じですが、生涯愛用した机の逸話とともに、京伝の堅実な性質の一端を知ることができるお話です。


木場公園へは東京メトロ東西線 「木場駅」より徒歩10分
浅草寺へは東京メトロ銀座線・都営浅草線・東武スカイツリーライン・つくばエクスプレス「浅草駅」より徒歩5分程度 
京橋の親柱へは東京メトロ銀座線「京橋駅」より徒歩2分

「山東京伝誕生の地」 文化財・史跡等50音順一覧(江東区)
べらぼう 江戸たいとう 大河ドラマ館|蔦重ゆかりの地 台東区
中央区観光協会 | 銀座 日本橋 築地 月島 人形町 東京 観光 | グルメや歴史など魅力を発信
中央区ホームページ/中央区内の文化財
※ステラnetを離れます

(取材・文 平岡大典[NHK財団])
(取材協力 中央区教育委員会、中央区、台東区、江東区)

主要参考文献: 
小池正胤『反骨者 大田南畝と山東京伝』教育出版
増田晶文『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』新潮選書
『江戸散歩・東京散歩』成美堂出版


※この記事はNHK財団が、大河ドラマゆかりの地をPRする事業のための取材をもとに構成したものです。NHK財団では大河ドラマや連続テレビ小説のご当地のみなさまとともに、冊子やポスターなど様々なコンテンツを制作しています。

詳しくは NHK財団・展開広報事業部までお問合せください