NHK放送博物館の川村です。今年はオリンピックイヤー。スポーツイベントと放送は古くから深い関係にあります。放送開始から100年の歴史の中で、放送技術はスポーツイベントによって技術革新を遂げてきたといっても過言ではありません。今回はスポーツ中継にかかわる放送の技術開発の歴史をたどっていきましょう。


さて、日本におけるテレビ開発は世界的にも早く、現在のテレビの原型である電子式テレビの実験は、世界で初めて日本で成功しました。当時の浜松技術専門学校の研究者だった高柳健次郎博士によって開発された電子式テレビ、のちに「高柳式テレビ」と呼ばれるこの装置は、日本でラジオ放送が始まった翌1926年12月に誕生。ここからテレビの実用化に向けた研究が本格的に始まりました。1930年には現在のNHK放送技術研究所の前身にあたる日本放送協会技術研究所が現在の東京・世田谷区に開設され、テレビは実用化に大きく近づいたのです。

世田谷区砧に開設された日本放送協会放送研究所(1936年)。
テレビの試験放送、ドラマ「夕餉前」のスタジオ風景(1940年)。

当時の日本放送協会は、1940年に開催予定だった東京オリンピックでテレビ中継を実施するための研究と準備を進めていました。テレビ研究初期に開発されたテレビカメラは当館で今も展示されています。あの時、東京オリンピックが開催されていれば、競技場で使用されたかもしれません。

戦前に開発されたアイコノスコープカメラ。戦後テレビ放送黎明期にも使用された(1939年)。

しかし日中戦争の激化によってオリンピックの開催は返上、テレビの研究も国から中止が命じられたため、この計画は幻に終わりました。戦後GHQからテレビの研究再開が許可され、実際に放送が始まったのは1953年のこと。画期的な技術力があったにもかかわらず、戦争はこうした分野にも暗い影を落としていました。

さて戦後テレビの時代になってからは、いかに早く映像を送るかについてさまざまな研究が行われました。1960年のローマ大会では現地で取材したフィルム映像を電波に乗せて日本に送る実験が行われました。その様子は当時の映像とともに当館2階のテーマゾーンで展示しています。

テーマゾーンでは、ローマ大会でフィルム電送速報に使用されたフィルムと実際の映像を展示中。

これはフィルムで撮影された映像をニュース速報用にコマ送りにして電送するというものです。今の時代から見るとフィルムをコマ送りにしたものを電波に乗せるなんて、ずいぶん面倒なことをしているように思えますが、当時はテレビの映像をそのまま送る技術がまだなかったため、テレビの初期段階ではこのような複雑な方式が編み出されたのです。当館の展示では、実際に伝送した映像を見ることができます。コマ送りのとびとびの映像で画像もぼやけており鮮明さには欠けますが、競技の様子はどうにか伝わってきます。

その4年後、1964年の東京オリンピックでは本格的なカラー放送の制作が行われました。この時東京大会のカラー放送に向けてさまざまな機材が開発されています。その代表的な機材が、当館2階テーマゾーンで展示中のこちらのカメラです。

2IO分離輝度方式カラーカメラ(1964年)

これは「2ツーIOアイオー分離輝度方式カラーカメラ」というテレビカメラです。イメージオルシコンという撮像管を2本使い、1本を色信号、もう1本は輝度信号用にすることで白黒でもカラーでも高画質の映像を再現できるようにした画期的なカメラです。主にメインスタジアムの国立競技場で、開会式や陸上競技を鮮やかな映像で伝えた立役者です。

国立競技場で活躍する2IOカメラ(当館展示写真)。

この時代には、会場でのインタビュー中継などに使用することを目的に開発された「小型ビジコンカメラ」も登場。こちらは当時ニュース取材の主力だったフィルムカメラ並みの機動性を生放送でも発揮できるように、重さが2.7kgと軽量構造になっています。

テーマゾーンで展示中の「1/2小型ビジコンカメラ」(1963年)。

機動性のよい1/2小型ビジコンカメラでスタンドからも中継。

さらに、1998年の長野大会では斬新な発想で開発された機材が登場しました。それが当館2階で展示中のこちらの機材です。

丸いボタンのようなこれは「氷中マイクロホン」。スケートリンクの氷の中に埋め込むことで、スケート靴のブレードが氷を刻む迫力ある滑走音を放送できるようにしたものです。スピードスケート会場のエムウェーブで使用され、清水宏保選手の金メダルの滑りを迫力ある音声で伝えました。

デジタルの時代に入り、今では画像加工の技術も多種多彩になってきました。100年の間にさまざまな技術を生み出してきたスポーツイベントですが、今年のパリ大会ではどんな映像技術が登場するのでしょうか。これもスポーツイベントの楽しみ方の一つです。