よく「歴史は勝者によって書かれたものだ」といわれます。たしかにそういう面もありますが、だからといって敗者がまったく無視されるわけではありません。
日本人は〝敗者の美学〟 が好きなのです。〝ほろびた者への同情と共感〟はいまでも絶えません。平家についてもおなじです。
センチメント(主情的)な見方を排して、ぼくなりの〝清盛の果たした歴史への役割〟を整理してみます。
・日本で最初の武士政権を創出したこと
・海を活躍の舞台にし、いままで〝陸の武士〟ばかりだったこの国に、〝海の武士〟を実現確 立させたこと
・経営、経済を重視し、とくに中国との貿易を重視したこと
などです。のちの織田信長の先駆者といっていい面が多々あります。ただ政権をにぎると同時に、一門のくらしぶりが公家化してしまいました。武士の原点を忘れなかった頼朝(おそらく妻の政子にけしかけられたのでしょうが)は、この弱点を突いたのです。
九州にはたくさんの〝平家伝説〟がのこされています。いくつかご紹介します。
・清盛は死後、筑後川の支流巨勢川で〝河童〟になった。しかし筑後川には九千坊という河童の大親分がいて、清盛河童はその支配下におかれ、かなりイジメられたようだ
・壇ノ浦では安徳天皇、清盛の妻・時子などが入水したが、侍女の按察使局伊勢がこれらの人びとをまつった。これが福岡県久留米市の水天宮のはじまりだ、といわれている
・巨勢川で河童になった清盛は、水天宮にまつられた時子に会いたくてたまらなかったが、九千坊がゆるしてくれず、やっと年に1回の逢瀬が認められた。清盛が水天宮にいく日、筑後川は大洪水になったそうだ
・平家一門で討ち死にした男性の多くは、カニに姿を変えた。それが〝平家ガニ〟とされる
そして今、日本各地に〝平家の落人村〟が数多く残っています。こんな所に?とおどろくような場所にもあります。また、「うちの先祖は平家の落人だ」と胸をはって誇る人にもたくさん会います。
清盛さん、大満足すべきでしょう。
(NHKウイークリーステラ 2013年1月4日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。