2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とはまったく別の視点で、平安時代末期を描いたのが2012年大河ドラマ「平清盛」だ。その放送時に、NHKウイークリーステラにて人気を博した歴史コラム、「童門冬二のメディア瓦版」を特別に掲載!

都では武士の台頭は“ほうげんの乱”あたりからですが、東北ではその30年前にユートピアが生まれていました。平泉(岩手県)です。造ったのは豪族、奥州藤原氏のきよひらです。清衡のあとは基衡・秀衡・泰衡とつづき、泰衡のときに頼朝にほろぼされます。頼朝にそむいた義経をかくまったためですが、これは相当あとの話になります。

初代の清衡は中尊寺を造りました。先般世界文化遺産に登録されました。境内に金色堂があります。1124(天治元)年に完成したお堂ですが、ここに納められたのが有名な清衡の「願文」です。

そこには心から平和をねがう清衡の切々たるきもちがみなぎり、歴史上の文書としてぼくがもっとも愛するものです。内容のあらましは、

・長くつづいた東北の戦乱もようやくおさまって、住む人びとも平和なくらしを送れるようになった
・しかしこの戦乱で死んだ人の数は多く、その霊は空をさまよい骨は地に朽ちている。しかも生命を失ったのは人間だけではない。トリやケモノも多く死んだ
・これらの霊をなぐさめ、日本の長い平和をねがうために中尊寺を建てます。仏様、どうかこの願いをおききください
というものです。

トリやケモノの成仏までねがう清衡のヒューマニズムに、思わず胸が熱くなります。

中尊寺というのは“中央のお寺”という意味です。清衡は東北諸国にお寺を建てさせ、また道路には一定の距離をおいてかさソトバ(宗教的道標)を立てました。北の果ては陸奥湾の外ヶ浜(青森県)にまでおよびました。

イラスト/太田冬美

いまでいえば信仰による“東北自治国”を実現したのですが、清衡は中央政治をおこなう朝廷の存在もキチンとしっていました。このころはまだ摂関政治がさかんで、関白は藤原ただざねの時代です。清衡は都の要人に東北特産の馬や黄金を献上しています。つまり“根まわし”は怠っていないのです。

くらでらにいた牛若丸(義経)に接近し、その面倒をみたという吉次も“黄金売り”を職業にしていますが、平泉地方の出身です。中尊寺は宇治の平等院を意識したといわれ、地域の地形も京都に似ているといわれます。

(NHKウイークリーステラ 2012年9月21日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。