2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とはまったく別の視点で、平安時代末期を描いたのが2012年大河ドラマ「平清盛」だ。その放送時に、NHKウイークリーステラにて人気を博した歴史コラム、「童門冬二のメディア瓦版」を特別に掲載!

治承4年、いわゆる1180年の後半、平家軍は近江(滋賀県)や美濃(岐阜県)で蜂起した源氏軍の追討に手を焼いていました。

そんなときに南都(奈良・かつての平城京)の興福寺と東大寺の僧兵が反平家の兵をあげました。しげひらの南都焼き打ちは、こういう状況への焦りがあったと思います。

僧兵との激戦中、思わず火を放ち両寺を完全に焼きつくしてしまいました。興福寺は藤原氏の氏寺です。東大寺は皇室の保護する寺です。藤原氏は一族のゆたかな財力を使って、すぐ興福寺の再建にかかりました。着々と復興の実があがっていきます。

しかし東大寺のほうはそうはいきません。朝廷の財政がきびしいからです。東大寺のシンボルは大仏です。その大仏も大仏殿も焼けおちてしまいました。

この復興のために朝廷は総責任者に僧・重源を任命しました。「東大寺再興造営勧進」というのがその職名です。

重源はそれまで諸国を遍歴することが多い、熱心なぶつ信者だといわれます。そのためか、朝廷は最初、法然(浄土宗の開祖)に再興を命じましたが、法然は辞退して重源を推薦したという説があります。

イラスト/太田冬美

重源が再興のための資金源として考えたのが奥州平泉の藤原ひでひらです。秀衡が管理するゆたかな黄金を提供してもらおう、と思い立ったのです。
そしてこの使者としてえらんだのが西行でした。ふたりは高野山での知りあいでした。西行は承知しました。

西行は平家のシンパサイザー(共鳴者・支持者)です。重衡の行動に胸を痛めていました。ですから東大寺再建の一助をになうことによって、平家のおかした罪をすこしでもつぐなえるだろう、と考えたのです。

西行は東国にむかいます。途中鎌倉で頼朝に会います。秀衡から都に送られる黄金は、まず頼朝がチェックしていたからです。
西行は、「東大寺再興のための金はチェックしないでいただきたい」という、例外扱いの許可を得ようとします。

頼朝は許可の交換条件として、西行が保持している武術の秘法の伝授をもとめますが、西行はなかなか“うん”といいません。西行は69歳でした。

(NHKウイークリーステラ 2012年12月14日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。