2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とはまったく別の視点で、平安時代末期を描いたのが2012年大河ドラマ「平清盛」だ。その放送時に、NHKウイークリーステラにて人気を博した歴史コラム、「童門冬二のメディア瓦版」を特別に掲載!

源頼政は摂津源氏(始祖は源頼光)5代目の武将です。旗色のわるい源氏のなかで、皇居への昇殿をゆるされたただひとりの人物です。
昇殿は三位以上の位階をもつぎょうにゆるされる特権ですが、実は頼政がここまで出世できたのは、清盛のなみなみならぬあと押しがあったからです。このとき頼政は、数えで74歳と高齢でした。

それまでの頼政は源氏と平家のあいだをいったりきたりしていました。頼政は〝ぬえ(日本伝承の妖怪、実はキツネだという)退治〟で有名ですが、その鵺のように捕らえどころのない〝世渡り上手〟でした。

しかし頼政の処世術にはキチンとした原則があったのです。その原則とは、「皇室を重んずる」ということです。〝そんのう心〟です。どんなときでも天皇や院(上皇や法皇)の命令には従う、という精神のことです。

保元の乱のときには平清盛・源義朝とともに後白河天皇の味方をしました。平治の乱では、はじめ藤原信頼・源義朝に味方しますが、二条天皇が六波羅に行幸すると、清盛と藤原通憲の側につきました。六波羅を攻める義朝があきれ、「おまえは源氏の一族でありながらなぜ平家の味方をするのだ?」となじりました。

イラスト/太田冬美

このとき頼政は、
・武士の主人は皇室である
・にもかかわらずおまえ(義朝)は貴族(藤原氏)の命令に従っている。おまえは反逆者だ

と応じました。皇室の命令には源氏も平家もない、というのがかれの考えでした。ですから従三位・昇殿の許可という大変な恩をうけた清盛にそむいたのも、この論理なのです。

清盛の〝治承三年の政変〟、 つまり1179年11月のクーデターに頼政は怒ったのです。法皇の近臣39人の処分はまだしも、院政停止、法皇の幽閉など、とんでもない不忠の行為です。せっかく手にした栄誉を捨てて、頼政は出家しました。清盛への抗議です。

そして法皇の皇子、もちひと王から〝平家打倒〟の誘いがきました。頼政はこれに応じます。
「鵺のような世渡り上手」といわれた頼政の〝真実〟が問われたからです。頼政は数え77歳、人生最期のときに自分の原則である〝尊王心〟に殉じたのです。

(NHKウイークリーステラ 2012年11月30日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。