2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とはまったく別の視点で、平安時代末期を描いたのが2012年大河ドラマ「平清盛」だ。その放送時に、NHKウイークリーステラにて人気を博した歴史コラム、「童門冬二のメディア瓦版」を特別に掲載!

北九州市はかつて鉄と石炭の街でした。燃料革命がおこなわれるとそのイメージが一変しました。〝エコのまち〟をめざしたからです。その典型が北九州市の区です。古さと新しさのよいところを併存するこの地域は、かぎりない明るさにみちています。門司のせきあとの一隅に大きな壁画があります。佐賀・有田の陶器でつくられています。

メインは壇ノ浦の源平海戦の図です。平家は義経に急追されて、ここの海で滅亡します。が、ここにいたるまでの合戦史をおおざっぱにたどると、つぎのようになります。

1183(寿永2)年5月、源(木曽)義仲が平家軍を破って京都に乱入、平家一門は一路福原へ。しかし義仲は平家の水軍に敗れたうえ、後白河法皇に無礼を働きます。すると、頼朝に義仲追討の院宣が法皇から下され、頼朝は弟の範頼と義経にこの命を下します。

1184(寿永3)年1月、義仲は粟津(滋賀県)で敗死。法皇は次に、頼朝に平家追討も命じます。頼朝は、範頼と義経に再び命を下し、2月に〝一ノ谷の戦〟、1185(元暦2)年2月〝屋島の戦〟 を経て、3月に〝壇ノ浦の戦〟で平家を滅亡させます。

イラスト/太田冬美

その年の8月14日に年号は改元されて「文治」になります。法皇は今度は源氏を分裂させようとはかり、義経には「頼朝追討」を、頼朝には「義経・行家追討」の院宣を出します。まさに〝大てん〟ぶりを発揮するのです。それを承知のうえで頼朝は義経を追討します。

鎌倉に「武士の・武士による・武士のための政府」を樹立したい頼朝には、法皇と密着する義経がゆるせなかったのです。しかし実際に平家を滅亡させたのは義経でした。

門司の関址にある海戦の壁画に数頭のイルカが描かれています。北九州市の職員の方にききました。「この辺にイルカがいたのですか?」と。「いたのです」と教えてくれたうえに、おもしろい話をきかせてくれました。

「むかしこの辺りの漁師たちは、イルカが底につくとその舟は沈むと信じていたそうです」
〝へえ〟と驚きつつ、ぼくはバカな想像をしました。壇ノ浦での義経の勝利は、潮流の変化を利用したからだといわれていますが、ぼくが想像したのは平家の兵船の底にピッタリ張りついたイルカたちの姿です。イルカは頭のいい生物です。すでにこれから先の日本の姿をみぬいていたのでしょうか。

(NHKウイークリーステラ 2012年12月21日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。