重盛と盛子が死ぬと後白河法皇と藤原基房が、重盛の知行地や盛子の荘園を取りあげようとします。土地はこのころの収入源だったからです。
知行地というのは国有地で、年貢の徴収や国内の裁判などを、朝廷が任命した国司(守・介・掾・目など)がおこなっていました。大化の改新後、日本国は66か国(これに壱岐・対馬の2島が加えられる)に分類され、それが国と称されました。
法皇が取りあげた重盛の知行国は越前(福井県)です。法皇はこの知行国だけでなく盛子の荘園も取りあげ、全部自分の所領(院領)にしてしまいました。
荘園というのは貴族や寺社の私有地です。現場管理のために事務所が設けられ管理人が任命されました。事務所を荘あるいは荘政所などとよび、管理人を荘官とよびました。
なぜ荘園が発生したのでしょうか。
もともとは朝廷に仕える公家(貴族)たちの〝思いあがりの論理〟から生まれた、という説 があります。その説とは、
・国家は国民のために存在しない。貴族のために存在する
・したがって国家はつねに貴族 の生活を保証すべきである
・それができないならば私有地の経営(荘園)を認めるべきである
というものです。しかも、
・荘園は年貢など国家の負担を除外する(非課税)
・そのため国の役人が立ちいることも認めない
というのが条件でした。国家の租税制度から独立した土地でした。しかし荘園の管理は所有主が直接おこなうわけではないので、現地の荘官が年貢や労役の課徴を好き勝手にやったり、収入のピンはねもおこないました。
それにしても国税を免除されているのですから、寺社も含む貴族にとって荘園はおいしい収入源だったのです。
こういう荘園の運営をみていれば、国家の地方管理もルーズになるのが当然です。国司のピンはねや横領もさかんになりました。
国司のことを受領といいましたが、かの『梁塵秘抄』の中にツルやカメが
〽︎殿は受領になりたもう
とお祝いの歌をうたったという巷説があるほどです。いずれにしても日本の土地は、国有地私有地とも、ズタズタの虫くい状態でした。平家の30余国知行は、清盛のこの状況へのアンチテーゼだったのかもしれません。
(NHKウイークリーステラ 2012年11月16日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。