以仁王は不遇な皇子です。後白河法皇の子でありながら〝親王〟にもなれませんでした。兄は二条天皇、弟は高倉天皇です。親王になれなかったのは、母藤原成子が摂関家の出身でなかったため、といわれます。
しかし以仁王の時代は親王宣下(天皇が親王や内親王の地位を与えること)さえあれば、皇族ならだれでも親王になれたといわれます。そうだとすれば父である法皇が、天皇であるころから以仁王にとくべつな感情をもっていた、とも考えられます。
以仁王は鳥羽法皇の皇女八条院暲子の猶子(養子)でした。八条院は日本各地にぼう大な荘園をもっていました。以仁王が反平家の令旨を出す背景には、八条院のゆたかな財力があったためといわれます。
皇位継承の候補者からもハズされた王は、文学の道や宗教の道にすすもうとしましたが、師の死などもあっていずれも挫折しました。
不遇のどん底ぐらしのなかにあって王は、「なぜ自分はこのように不遇なのだろうか?」と考えます。いきつく結論は、「政権をほしいままに操る清盛と平家一門のせいだ」ということになります。
王は 〝平家打倒〟を思いたちます。朝廷にあって源氏の出世頭でありながら、平家に不満をもっていた頼政と手をくみます。王の令旨は全国の源氏の手に届きました。
王と頼政は結局、京都の宇治平等院で平家軍に敗れ、ふたりとも死にます。ところがおもしろいうわさが立ちました。「以仁王は生きていて、諸国の源氏に挙兵を説いてまわっている」 というものです。
悲劇の人物が死なずに生きている、というのは、〝敗れし者への共感〟が大好きな日本人の「歴史におけるif(もし......)」です。
以仁王の場合もおなじです。 でもなぜこんなうわさが流れたのでしょうか。理由は、
・王が公的職務についていないので、多くの人がその実像をしらない
・王自身、ひっそりと三条高倉の家でくらしていた
・もちろん令旨を届けられた源 氏の連中も王をしらない
実像がほとんど知られておらず、死んだという現実味さえ持たなかった王は、亡霊となって諸国を歩きまわり、〝平家打倒〟を叫びつづけたのです。
(NHKウイークリーステラ 2012年11月23日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。