嚴島神社は清盛はじめ平家一門の守り神であることはたしかですが、それ以上に清盛には、
・この世における西方浄土の実現
・参詣する信者にとっての、この世の竜宮城の実現
という、〝夢と理想〟の具体化の意味があったと思います。その夢のお宮に、後白河法皇と滋子を招いたのですから、清盛は大満足だったでしょう。
このころが共に〝横紙破り〟といわれていた法皇と清盛の、〝蜜月時代〟の頂点だったと思います。そのつなぎ手になっていたのが滋子です。
法皇と滋子が嚴島神社に詣でたのは、1174(承安4)年3月下旬のことですが、このころの皇室状況をご紹介しておきます。
法皇の院政に抵抗し、自らの天皇親政を実現しようとした二条天皇は、その意志と勇気にもかかわらず病弱でした。そのため1165(永万元)年に皇太子の順仁に譲位しました。順仁は六条天皇となりますが、このとき満0歳です。
病弱な二条天皇と六条の幼なさ。いきおい祖父の後白河法皇が後見にのりだします。院政の強化です。しかも皇太子に指名されたのは法皇と滋子の子、憲仁でした。満5歳です。
六条より皇太子のほうが年長です。その後六条 は1168(仁安3)年に満4歳で退位し、 憲仁が即位しました。 高倉天皇です。
新天皇は1172(承安2)年、満11歳になると中宮(妻)をむかえました。清盛の娘徳子です。満14歳の年上の姫でした。徳子はやがて言仁という皇子を生み、この言仁がのちに安徳天皇になるのです。
清盛にすれば〝大満足の時代〟です。この状況をみて、いちばんくやし涙を流すだろう人をあげれば、それは二条天皇ではないでしょうか。二条天皇は退位の1か月後に亡くなっています。満22歳でした。
天皇にすれば六条の皇太子に滋子の生んだ憲仁が立てられた時点で、自身の皇統を断たれたのです。以後の一連の皇室人事は、後白河の意向がつよいことはたしかですが、そのかげにチラチラするのはやはり清盛です。
「おのれ、清盛め!」。
京都市北区にある二条天皇の香隆寺陵の土中から、そんな声がきこえてきそうです。
(NHKウイークリーステラ 2012年10月19日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。