保元の乱で敗れた崇徳院は、一旦仁和寺に身をおきましたが降伏し、讃岐国(香川県)に流されました。
西行は仁和寺にかけつけて院の身を案じています。院は歌道に深い関心をもち、自身でもたくさんの歌を詠んでいます。
瀬をはやみ 岩にせかるる
滝川の われても末に
あはむとぞ思ふ
という一首は「小倉百人一首」 のなかに入った院の歌です。
西行は院に愛されました。西行が身分をこえて歌名をたかめ、 芸術家として公家たちから尊敬されたのも、院の支持があったからだと思います。
讃岐国で流罪生活を送る院と西行は、しばし和歌を通じて交流しました。西行はその交流について、
「院のおせわをする女房を通じて」
と書き表していますが、現在は研究者の多くが「女房というのは〝院〟その人だろう」と推測しています。そして西行は、
「讃岐では院もお心をかえて後の世のお勤め(仏前でのお祈り)にひまなく......」とも書いていますが、これは事実から遠い記述のようです。
院が仏教とかかわりをもったことはたしかですが、内実は「日本国の大魔王となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」という、現朝廷をひっくりかえそうとするほどの、すさまじい怨念に身を焼いていました。自身の舌を食いちぎって、その血で「国家滅亡」の誓書を書いた、といわれています。
最後まで現朝廷をのろいながら、院は1164(長寛2)年8月26日、現地で亡くなりました。悶死と伝えられています。46歳でした。西行は47歳です。
院の死は都にもくわしく伝えられていましたから、人びとは「院の怨霊がなにをするだろうか」とおそれました。朝廷が讃岐院という号を、すぐ崇徳院と改めたのも、たたりをおそれたためです。
院の死をきいた西行は、
「院の怨念を鎮めることが自分の使命だ」
と思い立ち、4年後に讃岐へ向かいます。院の生前に流罪所を訪ねられなかったことを、西行もずっと気にしていたのです。
院のお墓は香川県坂出市青海町にあります。白峯陵とよばれています。院の火葬所の跡です。のちに源頼朝が維持のための土地を寄進しています。流罪経験者としての共感でしょうか。
(NHKウイークリーステラ 2012年8月3日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。