天皇の称号は亡くなったあとにつけられます。現職中は上・しゅじょうきんじょう・当代・とうきんなどとよばれたそうです。

また上皇というのは退位された天皇を太上天皇とよんだ略称で、太上天皇が出家すると太上法皇、略して法皇とよびました。白河天皇については、

・落飾した(髪をった)が法号は定めなかった。つまり上皇のままでいたという説と、
・いやひそかに受戒し法号を融観とした(法皇)
というふたつの説がありますので、法皇説に従います。

法皇のせきについては、近臣だった藤原宗忠が「ちゅうゆう」という記録をのこしています。中右とは、宗忠がなかかどと称し、右大臣をつとめたのでその略称でしょう。この記録によると、白河天皇は(記述は意訳)

・天下の政治を57年とった
・ご自身の心にまかせ、朝廷の人事や各地の支配者(受領)の任免を法にこだわらずおこなった
・その威厳は四海にみち天下もこれに帰服した
・理非の判断は果断であり、賞罰のモノサシもハッキリしていた
・愛憎もハッキリしており、男女への好悪も思うとおりだった
・富める者をちかづけ貧しい者はしりぞけた
・このためそれまでの秩序がやぶれ、上下をとわずひとびとのきもちがおちつかなくなった
と書いてあります。

これは法皇が意図的におこなったもので、
・天皇家の権威をつよめる
・そして藤原家(摂関〔摂政・関白〕のポストを独占している)をおさえこむ
・とくに皇太子(次期天皇)の指名権を現天皇の手にとりもどす
などという政治的意図がありました。

イラスト/太田冬美

このため法皇はそれまで“公家の番犬”だった武士を重く用いはじめます。しかしこの果断な法皇にも、“思いのままにならないもの”が3つありました。鴨川の洪水とバクチの流行(使うサイコロの目)と僧兵のらんぼうです。

このころ雨がふりつづいて、洪水が民をくるしめていましたので、法皇は雨の一部を容器にいれ、ろうごくにブチこんだそうです。ユーモアのある人物でした。清盛にはそういう法皇の血が流れていたのでしょうか。

(NHKウイークリーステラ 2012年1月20日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。