SMAP、嵐、関ジャニ∞、EXILE、AAA、超新星。音楽プロデューサーユニット「Face 2 fAKE」として世に送り出した楽曲は数知れず。大ヒット映画『翔んで埼玉』では「第43回日本アカデミー賞」優秀音楽賞を受賞。現在、NHKで放送中の「歴史探偵」(総合)では、歴史の謎へといざなうテーマ曲が話題となっている。そんな確固たる存在感で音楽シーンで活躍するのが、アキレス・ダミゴス氏(Achilles Damigos)だ。

「歴史探偵」レコーディング風景

輝かしい経歴をもつアキレス氏だが、ギリシャから母方の祖国である日本に移住した少年期以降、文化の違いを受け入れるのに苦労したという。希代のヒットメーカーの誕生秘話とともに、自身と同じ来日外国人の子どもたちへの思いを聞いた。


  音楽を始めたきっかけは何でしょうか?

中学1年のころ、妹がピアノを習い始めて。僕も見よう見まねで弾き始めたら、僕の方がハマっちゃって、1日8時間は弾いてたなあ。オリビア・ニュートン・ジョンやビージーズが大好きで。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』がきっかけで“映画と音楽”という組み合わせに興味を持った。

  映画音楽への入口はそこにあったのですね。曲作りはそのころから?

洋楽からYMOなどの邦楽に興味が広がり、お小遣いで譜面を買っていろんな曲を弾くうちに、スケール(音階)の一定の決まりを見つけて自分でも曲を作り始めた。中学2年でバンドを組んで、3年の誕生日に親に頼み込んでシンセサイザーを買ってもらって。高校に入ると先輩に4チャンネルの録音機材を借りてレコーディングを始めた。

  高校生にして、既に音楽プロデュースをしていたのですね!

僕がやっていることを面白がって力を貸してくれる友人がいたり、認めてくれる家族がいたから出来たことだね。今は一緒に活動しているOh!Be(Face 2 fAKE)がいるからこそ作品が出来上がる。日本に来たころから、周りの人には恵まれていたな。

レコーディング中のFace 2 fAKEの2人。右がアキレス氏。

  デビューされたのは、いつでしたか? 

音楽大学に在学中に自分の作った曲がCBS Sonyの人の手に渡って、「さあ、デビューだ」って。ただ、そのとき一緒にやっていたバンドメンバーから1人を除くってことが条件。僕ともう1人は外国の血が入っていて、会社としては「ハーフのユニット」として売り出したかったみたい。結局、アルバム1枚出して解散したけれど。

  音楽的な事情ではなく、“国籍”や”“見た目”での逆差別を敏感に感じたのですかね。 

そう。だから反骨心丸出しでたてついてばかりいたよ。「音楽的に違うんですよね」って文句ばかり言っていたけれど、根っこにあるのは大人社会への違和感。


言葉や文化の違いを超えるラテン気質

  日本に来た当初、友達はすぐに出来ましたか?

来日してすぐは祖父母宅がある東京・杉並区に暮らしていて。目の前の空き地に子どもたちが集まってなにやら楽しそうな声がし、怖いもの知らずの僕はそこに飛び込んだんだ。すると、いきなりボールをぶつけてくるじゃないか。「何すんだ!(ギリシャ語で)」と相手につかみかかって4対1のけんかになった。あれがドッジボールと日本の文化との初めての出会い。

  そのころから熱い、まさにラテンですね(笑)。

ギリシャでは柔道を習っていたので、負けてられるか!っていう勝気なところだけは言葉が通じなくても発動してしまって。

  日本でのスタートで不自由を感じたことは?

実は、初登校の日に隣の席にいたのが、まさかの胸倉をつかみ合ったボス格の子。はじめは気まずかったけれど、日本語がほとんど話せない僕の面倒を見てくれたんだ。彼がいたおかげで友達も集まるようになって、学校にすぐになじめたんだと思う。

  他に印象に残っていることは?

ギリシャの柔道は「とりあえず勝て!」みたいな勝負事。日本は礼儀・礼節を大切にする武道そのものだったね。

  アキレス氏の礼儀正しさの源はここにあった!


「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」
母の口ぐせを忘れずに

  日本語の勉強はどこで?

来日して3か月は都内にあるファミリースクールに通った。小学生から中学生の多年齢で、国籍もバラバラ。帰国したての日本人の子どもたちもいた。
そこでは、遊びを通じて日本語や日本特有の文化を学んだ。皆、言語はバラバラだけどジェスチャーで伝わるし、度胸がついたのだと思う。

  日本語の生活には、どのくらいの期間で慣れましたか?

学校での日本語の特別指導はなかったけれど、分からないことは友達がいつもフォローしてくれて。彼らなりに面白がっていたのかもしれないけれど、皆の手助けがあって、1年したら苦を感じずに学校生活を送れるようになっていた。ウクライナ避難民のニュースを見ると、子どもたちがワイワイ集まって助けてあげてるじゃない。ああいうのが大事だよね。

  親御さんはどのように接していたのですか?

ギリシャにいるときは日本語を教わったことはなくて。日本行きが決まってから数か月母が日本語を教えてくれたけれど、自分の経験から「何とかなる」って思っていたみたい。

  大らかなお母さんですね。

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」。ギリシャ語で同じ意味の言葉はないけれど、母がよく口にしていた。いっぱい間違えて、いっぱい恥をかいて学びなさいと。


個性を認め、その表現を大切に

  最後に、アキレスさんと同じように外国から来て、日本語が分からないまま生活を始める子どもたちと、その子たちを受け入れる社会にメッセージを。

それぞれが“個”として自分を見てもらう、その子なりの表現を大切にする。周りの社会も、その子が外国人であってもその子の個性として認めることが重要だと思う。

  それは、国籍だけでなく、多様なマイノリティーに言えることですよね。

LGBTQ、外国人、男女平等、夫婦別姓…。いろいろな人が動いて働きかけをしているけれど、いちばん大切なのは人と人との関係性だから。人はもっとフラットな存在だと一人ひとりが思っていれば、自然とニュートラルな社会に変わっていくのだと思う。マイノリティーだって、人は同じ存在でしょ。そういう社会になってほしいね。


アキレス氏が何度か口にした“ニュートラル(中立、不偏不党)な社会”。彼の紡ぐ一音一曲に込められ、これからも私たちのもとに届くのだろう。今後も映画音楽やNHKの番組の音楽制作に入るという。どんな音楽を私たちに届けてくれるのか、これからも楽しみだ。

(取材・文 NHKサービスセンター 木村与志子)