“平治の乱”の一因は、後白河・信西コンビに不満がある藤原信頼と、同じ不満をもつ義朝たちのパワーが結合し、燃焼したことにあったとみていいでしょう。
こんなことがありました。信頼があるとき、後白河上皇に、
「もっとお近くで上皇をおまもりしたい、と思います。わたしを右近衛大将にしてください」
とたのみました。上皇は、
「信頼がこんなことをいってきた。どう思う?」
と信西に相談しました。
信西はこたえずに、唐(中国)の玄宗皇帝に対し、安史の乱を起こした反逆者安禄山を描いた絵物語を提出しました。
「信頼は安禄山のような存在です。おそばからしりぞけなさい」
というイミです。が、信頼をかわいがっていた上皇は、信西の暗示を無視しました。
そのため信西は、
「“謀反人”がそばにいても気がつかず、人にいわれてもそのままにしている。上皇は、古今にない暗君だ」
と、きこえよがしの批判をしました。
信西の子、俊憲も調子づいて、
「後白河院は古代中国の西晋の恵帝にまけない愚帝だ」
といいはなちました。
こういう話を読むと、
「君臣の忠とか主従関係の本質って、いったいなんだろう」
と思います。
後白河が今様や田楽や猿楽に夢中になるのも、
「だれも信じられない孤独なトップ」
の精神状況を如実にあらわしています。
自分を批判しながら王道政治をめざす“ヤリ手”の信西よりも、たとえ無能でも子犬のようにシッポをふってまといつく信頼のほうがかわいい、と思うこともあったでしょう。
いまの時代もおなじですが、トップも人間です。諫言だけがトップへのはげましではありません。あまり耳に痛い話ばかりきかされると、トップのモラル(やる気)もアップするどころか逆にダウンしてしまうことがあります。
徳川家康が、
「諫言は一番槍(戦やしごとでのめざましい功績)よりもむずかしい」
といったのは真理です。まして補佐役である信西が、こんな批判をしてはいけません。
どうせすぐ、後白河の耳にはいるからです。“平治の乱”はこういうどろどろした権力争いが発端でした。民衆とはほど遠い事件ですネ。
(NHKウイークリーステラ 2012年7月6日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。