大宰府は、現在の福岡県太宰府市の地に設けられた大和朝廷の役所です。664(天智3)年に、ちかくに水城も築かれました。つまり大陸からの侵攻に対する防衛のための役所だったのです。対馬や筑紫には防人もおかれました。
このころ朝鮮半島では新羅・高句麗・百済の3国が、たがいに半島を統一しようと争っていました。戦いについては、韓国ドラマ「太祖王建」「海神」(BS朝日)などに詳しく描かれています。日本は百済を応援して兵を送りましたが、新羅を応援する唐(中国)の水軍と白村江で戦って敗れました。
そこで大陸からの報復を警戒して、急遽水城をつくったのです。ときの天皇は、大化の改新の主人公のひとり、天智(中大兄皇子)でした。警戒心はさらにエスカレートし、朝廷ごと近江(滋賀県)に移ることになります。
いきおい、イザというときにはまず九州の武士が動員されます。そのため、ふだんからこの地方の武士たちに、
「異国からの侵攻には身を挺して国土を防衛する」
という心がまえをもってもらうことが大切です。それは、
「九州人(地方人)であると同時に日本人(国家人)であること」
を意識させることでした。ところが九州には公家たちの荘園が多く、その所有者がほとんど都にいるので、年貢の徴収などの管理事務は土地の代理人にまかされていました。
当然収入のピンハネがおこなわれ、代理人は私兵を養います。この力がバカにできず、中央政府(朝廷)にとっては、
「まことに治めにくい地域」
となっていました。
清盛が「鎮西(九州)追討」の命令をうけたのは1157(保元2)年1月のことです。そして大宰府大弍(次官)に任命されたのが1158(保元3)年8月10日のことです。このころの大宰府は、外敵警戒よりも外国使節や渡来人への応接と、貿易の管理などにしごとの内容がかわっていました。
朝鮮では唐の応援を得た新羅が生きのこり、まず百済が、やがて高句麗がほろびます。百済からは多くの移民が日本に渡ってきました。朝廷はこの人びとを東国に住まわせます。
のちには高句麗・新羅の人びとも日本にやってきます。しかし日本では、みんな仲よくくらしたそうです。
(NHKウイークリーステラ 2012年6月22日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。