2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とはまったく別の視点で、平安時代末期を描いたのが2012年大河ドラマ「平清盛」だ。その放送時に、NHKウイークリーステラにて人気を博した歴史コラム、「童門冬二のメディア瓦版」を特別に掲載!

大宰府は、現在の福岡県太宰府市の地に設けられた大和朝廷の役所です。664(天智3)年に、ちかくにみずも築かれました。つまり大陸からの侵攻に対する防衛のための役所だったのです。対馬や筑紫にはさきもりもおかれました。

このころ朝鮮半島ではしらこう百済くだらの3国が、たがいに半島を統一しようと争っていました。戦いについては、韓国ドラマ「ジョワンゴン」「シン」(BS朝日)などに詳しく描かれています。日本は百済を応援して兵を送りましたが、新羅を応援する唐(中国)の水軍とはくそんこうで戦って敗れました。

そこで大陸からの報復を警戒して、きゅうきょ水城をつくったのです。ときの天皇は、大化の改新の主人公のひとり、天智(なかのおおえの皇子)でした。警戒心はさらにエスカレートし、朝廷ごと近江(滋賀県)に移ることになります。

いきおい、イザというときにはまず九州の武士が動員されます。そのため、ふだんからこの地方の武士たちに、
「異国からの侵攻には身をていして国土を防衛する」
という心がまえをもってもらうことが大切です。それは、

「九州人(地方人)であると同時に日本人(国家人)であること」
を意識させることでした。ところが九州には公家たちの荘園が多く、その所有者がほとんど都にいるので、年貢の徴収などの管理事務は土地の代理人にまかされていました。

当然収入のピンハネがおこなわれ、代理人は私兵を養います。この力がバカにできず、中央政府(朝廷)にとっては、
「まことに治めにくい地域」
となっていました。

清盛が「鎮西(九州)追討」の命令をうけたのは1157(保元2)年1月のことです。そして大宰府だい(次官)に任命されたのが1158(保元3)年8月10日のことです。このころの大宰府は、外敵警戒よりも外国使節や渡来人への応接と、貿易の管理などにしごとの内容がかわっていました。

イラスト/太田冬美

朝鮮では唐の応援を得た新羅が生きのこり、まず百済が、やがて高句麗がほろびます。百済からは多くの移民が日本に渡ってきました。朝廷はこの人びとを東国に住まわせます。

のちには高句麗・新羅の人びとも日本にやってきます。しかし日本では、みんな仲よくくらしたそうです。

(NHKウイークリーステラ 2012年6月22日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。