きょうの大流行、そして狂歌師・おおなん(演:桐谷健太)が大ブレークした余波もあり、一躍いちやく江戸中の有名人となったつたじゅう(演:横浜流星)。一方、今回、和泉屋(演:田山涼成)の葬式に参列した吉原の親父おやじたちが、一般の参列者と同じには扱ってもらえない情景も描かれました。これから日本橋出店という夢を実現させたい蔦重自身にとっても、“吉原者よしわらもの”であることが足枷あしかせとなっていきます。

足枷とは具体的にどのようなものだったのでしょう。

たとえば、「吉原者はつけ内に土地を買ってはならない」というのがその一つです。“見附”とは見張りの番兵を置いた城門のことで、江戸城には俗に三十六見附があったといわれます(ただし、実際の数はもっと多かったようです)。明治以後、城門は撤去されましたが、現在でも地名としてよつ見附、赤坂見附、牛込うしごめ見附、いちがや見附などが残っています。

なお蔦重が店を構えたいと考えている日本橋は、見附内であるばかりでなく、江戸の町でもっともステータスの高い商業地でした。

「江戸御見附略図」 嘉永4(1851)年 東京都立図書館蔵

少し前の話になりますが、ドラマの第14回で、大文字屋市兵衛(演:伊藤淳史)が、吉原の親父たちの前で「俺が騒ぎ立てたばっかりに。すまねえ!」と謝っていたことを覚えていらっしゃるでしょうか? 奉行所から「吉原者はつけ内に土地を買ってはならない」という沙汰が下る発端になった一件です。この話は、『譚海たんかい』という見聞記の記述がもとになっています。その経緯を『譚海』から詳しくみていきましょう。

津村正恭(淙庵)著『譚海』 巻一の表紙 京都大学附属図書館蔵
安永あんえい元年(1772)春に吉原などで火事が起き、翌年の夏ごろまで両国で遊女屋の仮営業が許された際、大文字屋市兵衛は、浅草見附の外である両国あたりで屋敷を買い、別荘としました。また安永7年の冬に、今度は神田岩槻町(該当地不明)の屋敷地を1200両で買うことになり、手付金200両を渡して売主から町名主へその旨を届けました。しかし、名主の益田又右衛門から「これまで地主に遊女屋はいなかったからダメだ」と断られてしまいます。

「前に両国あたりで土地を買ったのに、今回はいったい何のさわりがあるのか」

不満に思った市兵衛は公訴に及びますが、その判決は「遊女屋というのは四民しみん(かつての士農工商を指す。いわゆる庶民)の下である。いやしい者でありながら、分限ぶげん(身のほど)を考えず御城下近くで家屋敷を設けようなど、大変けしからんことである。もし身のほどをわきまえ、ほかの口実であったならともかく、遊女屋として御城下近くに地面を買うことは決して許されない」というもので、*急度きっとしかりの処罰となってしまいました。
※叱は庶民に科した最も軽い刑罰。奉行所のしらに呼び出し、その罪を叱責し放免するもので、そのうちの重いものを急度叱という。

市兵衛は奉行所におびをし、この件は取り下げてほしいとお願いしますが、時すでに遅し。吉原の名主全員から「以後じょうかく近くの土地を買わない」旨の証文を差し出すことになり、市兵衛も詫証文わびしょうもんをいれ、さらには江戸惣名主そうなぬし(町の代表者)にも遊女屋に土地を売ってはならない旨が言い渡されてしまいました。

以上が『譚海』に書かれた経緯です。公的な記録が残っていないうえ、舞台となる神田岩槻町というのもどこか不明で、本当にあったことなのかよくわかりません。ただ、いずれにせよ顛末てんまつはこのようなものだったといいます。

 

薮から蛇を出してしまった、大文字屋の訴訟

訴訟を起こした大文字屋市兵衛は“にわか”(ドラマ第12回)で話題となり、第21回からは先代を継いだ息子が活躍していますね。実際に「かぼちゃ」とあだされていた市兵衛は、遊女屋の楼主でありながら、父子ともに文人としても名を残しており、当時の吉原のちょっとした有名人でした。屋敷地の購入費1200両をぽんと出せるとは、遊女屋のほうも相当もうかっていたのでしょう。

吉原の楼主たちに謝る大文字屋(第14回より)

さて、この事件を取り上げて論じた民俗学者の中山太郎は、こうした先例を作ってしまった市兵衛は「同じくるわものからうらまれたり笑われたりしたことであろう」と所感を述べています(『売笑三千年史』)。これは本当にその通りで、遊女屋をはじめとする吉原者は賤しい身分とみなされているものの、どこなら土地を買っていいとか悪いとか、本来はそんなことまでいちいち定められていません。騒ぎ立てさえしなければ、おかみから目くじらを立てられることもなかったでしょう。市兵衛はまさにやぶをつついてへびを出してしまったわけです。

中山は、この判決が出された背景には「しこれを許すと自然と遊女などが徘徊はいかいし、風紀をみだおそれがあると考えたから」であろうとも述べています。吉原者が賤しいからというばかりでなく、許した場合の悪影響を懸念しての判決だったとも考えられるということです。

『譚海』に書かれていた判決にも、「もし身のほどを弁え、ほかの口実であったならともかく……」とあったように、遊女屋として大っぴらでなければ屋敷地を買っても構わないととれる文言がありました。風紀を乱さないよう、日陰者であることを自覚してコソコソとやりなさいというのが、奉行所の判決の大意だったのでしょう。

 

吉原よりも大きな儲けが期待できた遊女屋の“仮宅”

ところで、そもそもこの問題が勃発したのは、市兵衛が吉原の外に「別荘」を設ける土地を買おうとしたためとありました。遊女屋の別荘(別宅)は“りょう”とも呼ばれましたが、なぜ“寮”を欲しがったのでしょうか。

ひとつには、『譚海』の冒頭にあったとおり、吉原の遊女屋が地震や火事のため営業困難になった際、別の場所で行う仮営業の拠点とするためです。こうした仮営業を、当時は“仮宅かりたく”と呼びました。市兵衛が訴訟をおこす前、両国で仮営業したとありましたが、場所は毎回幕府の指定です。浅草や本所、深川が多かったようですが、ほかにもさまざまな場所で遊女屋は仮営業をしていました。

江戸の初めごろは、仮宅はさほど長期には及びませんでした。しかし、時代を経るにつれ長期間にわたるようになっていきます。なぜかというと、吉原の遊女屋たちがそれを強く望んだためです。客にとって仮宅は、市中から遠い浅草に置かれた吉原よりもよっぽど通いやすく、通常の吉原よりも簡素できん。そんなところが受けたらしく、経営難の遊女屋が仮宅でもちなおすほどのにぎわいをみせたといいます。できるだけ仮宅で長く営業を続けたいと、遊女屋が延長を願うのも当然だったでしょう。

「当世仮宅遊」 国立国会図書館デジタルコレクションより転載
安政大地震の後の仮宅を描いた浮世絵。再興のために仕事が増えた人々――大工やとび、屋根屋といった、普段の吉原にはあまり足を運ばないような人々で賑わっている。

またドラマの第14回では、鳥山とりやまけんぎょう(演:市原隼人)の騒動で一時、がわ(演:小芝風花)が寮で生活する描写がありました。このように、寮は少々ワケありの遊女を置く場でもあり、とりわけやまいの遊女が身を寄せました。

松葉屋の寮に身を寄せた瀬川は、体を壊した遊女・松崎(演:新井美羽)を看病するが……(第14回より)

本来、吉原の遊女は廓から出ることを禁じられています。ふらふらと町を出歩いては風紀が乱れる、だからこそ吉原という閉じられた区画が意味をもったわけです。しかし、遊女が重病となれば話は別。遊女が病におかされた場合、廓の外での療養が許され、禿かむろ新造しんぞう(遊女見習いの子どもや若手の遊女)などが付き添い、看病することがしばしばあったようです。

とはいえ、皆が皆、寮に入れるわけではありません。遊女の病としては梅毒ばいどくがよく知られますが、症状の重くなった遊女は、たいてい日も当たらないような狭い部屋に押し込められ、ろくに食事も与えられなかったといいます。楼主が“まだまだ金になる”と思う人気の遊女だけが、寮での療養を許されたのです。

吉原外の土地を買い、訴えを起こしてまで寮を持とうとした背景には、こうした遊女屋ならではの事情がありました。市兵衛がお上ににらまれてしまった以上、再び騒ぎを起こすのは得策ではありません。

はたして蔦重や吉原の親父たちはこれからどう出るのか……今後の展開を楽しみにご覧ください。

 

参考文献:
石井良助『吉原:公儀と悪所』明石選書、2012
中山太郎『売笑三千年史』ちくま学芸文庫、2013
西山松之助編『日本史小百科 遊女』東京堂出版、1994

 

成城大学非常勤講師ほか。おもに江戸時代の買売春を研究している。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻修了。博士(文学)。2022年に第37回女性史 青山なを賞(東京女子大学女性学研究所)を受賞。著書に『近世の遊廓と客』(吉川弘文館)、『吉原遊廓』(新潮新書)など。