狂歌の大流行、そして狂歌師・大田南畝(演:桐谷健太)が大ブレークした余波もあり、一躍江戸中の有名人となった蔦重(演:横浜流星)。一方、今回、和泉屋(演:田山涼成)の葬式に参列した吉原の親父たちが、一般の参列者と同じには扱ってもらえない情景も描かれました。これから日本橋出店という夢を実現させたい蔦重自身にとっても、“吉原者”であることが足枷となっていきます。

足枷とは具体的にどのようなものだったのでしょう。
たとえば、「吉原者は見附内に土地を買ってはならない」というのがその一つです。“見附”とは見張りの番兵を置いた城門のことで、江戸城には俗に三十六見附があったといわれます(ただし、実際の数はもっと多かったようです)。明治以後、城門は撤去されましたが、現在でも地名として四谷見附、赤坂見附、牛込見附、市谷見附などが残っています。
なお蔦重が店を構えたいと考えている日本橋は、見附内であるばかりでなく、江戸の町でもっともステータスの高い商業地でした。

少し前の話になりますが、ドラマの第14回で、大文字屋市兵衛(演:伊藤淳史)が、吉原の親父たちの前で「俺が騒ぎ立てたばっかりに。すまねえ!」と謝っていたことを覚えていらっしゃるでしょうか? 奉行所から「吉原者は見附内に土地を買ってはならない」という沙汰が下る発端になった一件です。この話は、『譚海』という見聞記の記述がもとになっています。その経緯を『譚海』から詳しくみていきましょう。

「前に両国あたりで土地を買ったのに、今回はいったい何の障りがあるのか」
不満に思った市兵衛は公訴に及びますが、その判決は「遊女屋というのは四民(かつての士農工商を指す。いわゆる庶民)の下である。賎しい者でありながら、分限(身のほど)を考えず御城下近くで家屋敷を設けようなど、大変けしからんことである。もし身のほどを弁え、ほかの口実であったならともかく、遊女屋として御城下近くに地面を買うことは決して許されない」というもので、*急度叱の処罰となってしまいました。
※叱は庶民に科した最も軽い刑罰。奉行所の白洲に呼び出し、その罪を叱責し放免するもので、そのうちの重いものを急度叱という。
市兵衛は奉行所にお詫びをし、この件は取り下げてほしいとお願いしますが、時すでに遅し。吉原の名主全員から「以後御城郭近くの土地を買わない」旨の証文を差し出すことになり、市兵衛も詫証文をいれ、さらには江戸惣名主(町の代表者)にも遊女屋に土地を売ってはならない旨が言い渡されてしまいました。
以上が『譚海』に書かれた経緯です。公的な記録が残っていないうえ、舞台となる神田岩槻町というのもどこか不明で、本当にあったことなのかよくわかりません。ただ、いずれにせよ顛末はこのようなものだったといいます。
薮から蛇を出してしまった、大文字屋の訴訟
訴訟を起こした大文字屋市兵衛は“俄”(ドラマ第12回)で話題となり、第21回からは先代を継いだ息子が活躍していますね。実際に「かぼちゃ」と渾名されていた市兵衛は、遊女屋の楼主でありながら、父子ともに文人としても名を残しており、当時の吉原のちょっとした有名人でした。屋敷地の購入費1200両をぽんと出せるとは、遊女屋のほうも相当儲かっていたのでしょう。

さて、この事件を取り上げて論じた民俗学者の中山太郎は、こうした先例を作ってしまった市兵衛は「同じ廓者から恨まれたり笑われたりしたことであろう」と所感を述べています(『売笑三千年史』)。これは本当にその通りで、遊女屋をはじめとする吉原者は賤しい身分とみなされているものの、どこなら土地を買っていいとか悪いとか、本来はそんなことまでいちいち定められていません。騒ぎ立てさえしなければ、お上から目くじらを立てられることもなかったでしょう。市兵衛はまさに薮をつついて蛇を出してしまったわけです。
中山は、この判決が出された背景には「若しこれを許すと自然と遊女などが徘徊し、風紀を紊す虞れがあると考えたから」であろうとも述べています。吉原者が賤しいからというばかりでなく、許した場合の悪影響を懸念しての判決だったとも考えられるということです。
『譚海』に書かれていた判決にも、「もし身のほどを弁え、ほかの口実であったならともかく……」とあったように、遊女屋として大っぴらでなければ屋敷地を買っても構わないととれる文言がありました。風紀を乱さないよう、日陰者であることを自覚してコソコソとやりなさいというのが、奉行所の判決の大意だったのでしょう。
吉原よりも大きな儲けが期待できた遊女屋の“仮宅”
ところで、そもそもこの問題が勃発したのは、市兵衛が吉原の外に「別荘」を設ける土地を買おうとしたためとありました。遊女屋の別荘(別宅)は“寮”とも呼ばれましたが、なぜ“寮”を欲しがったのでしょうか。
ひとつには、『譚海』の冒頭にあったとおり、吉原の遊女屋が地震や火事のため営業困難になった際、別の場所で行う仮営業の拠点とするためです。こうした仮営業を、当時は“仮宅”と呼びました。市兵衛が訴訟をおこす前、両国で仮営業したとありましたが、場所は毎回幕府の指定です。浅草や本所、深川が多かったようですが、ほかにもさまざまな場所で遊女屋は仮営業をしていました。
江戸の初めごろは、仮宅はさほど長期には及びませんでした。しかし、時代を経るにつれ長期間にわたるようになっていきます。なぜかというと、吉原の遊女屋たちがそれを強く望んだためです。客にとって仮宅は、市中から遠い浅草に置かれた吉原よりもよっぽど通いやすく、通常の吉原よりも簡素で卑近。そんなところが受けたらしく、経営難の遊女屋が仮宅でもちなおすほどの賑わいをみせたといいます。できるだけ仮宅で長く営業を続けたいと、遊女屋が延長を願うのも当然だったでしょう。

安政大地震の後の仮宅を描いた浮世絵。再興のために仕事が増えた人々――大工や鳶、屋根屋といった、普段の吉原にはあまり足を運ばないような人々で賑わっている。
またドラマの第14回では、鳥山検校(演:市原隼人)の騒動で一時、瀬川(演:小芝風花)が寮で生活する描写がありました。このように、寮は少々ワケありの遊女を置く場でもあり、とりわけ病の遊女が身を寄せました。

本来、吉原の遊女は廓から出ることを禁じられています。ふらふらと町を出歩いては風紀が乱れる、だからこそ吉原という閉じられた区画が意味をもったわけです。しかし、遊女が重病となれば話は別。遊女が病に侵された場合、廓の外での療養が許され、禿や新造(遊女見習いの子どもや若手の遊女)などが付き添い、看病することがしばしばあったようです。
とはいえ、皆が皆、寮に入れるわけではありません。遊女の病としては梅毒がよく知られますが、症状の重くなった遊女は、たいてい日も当たらないような狭い部屋に押し込められ、ろくに食事も与えられなかったといいます。楼主が“まだまだ金になる”と思う人気の遊女だけが、寮での療養を許されたのです。
吉原外の土地を買い、訴えを起こしてまで寮を持とうとした背景には、こうした遊女屋ならではの事情がありました。市兵衛がお上に睨まれてしまった以上、再び騒ぎを起こすのは得策ではありません。
はたして蔦重や吉原の親父たちはこれからどう出るのか……今後の展開を楽しみにご覧ください。

参考文献:
石井良助『吉原:公儀と悪所』明石選書、2012
中山太郎『売笑三千年史』ちくま学芸文庫、2013
西山松之助編『日本史小百科 遊女』東京堂出版、1994
成城大学非常勤講師ほか。おもに江戸時代の買売春を研究している。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻修了。博士(文学)。2022年に第37回女性史 青山なを賞(東京女子大学女性学研究所)を受賞。著書に『近世の遊廓と客』(吉川弘文館)、『吉原遊廓』(新潮新書)など。