2024(令和6)年10月、76歳で亡くなった俳優の西田敏行さんは、およそ半世紀にわたってテレビ・映画・舞台で幅広く活躍してきました。深みのある演技とともに、その愛きょうのある人柄が愛された西田さん。故郷・福島県郡山市の思い出の食べ物やご両親への思い、そして芝居にかけた情熱を語ったインタビューをご紹介します。
聞き手/桜井洋子この記事は、月刊誌『ラジオ深夜便』2025年2月号(1/17発売)より抜粋して紹介しています。
おふくろの肩車で『七人の侍』を見た
──西田さんは幼少期からお芝居に興味があったそうですね。
西田 僕は5歳のときに養子に入ったんですが、養父が映画好きで、土日には必ず僕を自転車の後ろに乗っけて郡山にある映画館に通っていました。父は嵐寛寿郎みたいな感じの人で、代表作の『鞍馬天狗』が好きでね。時代劇をはじめ、いろんなジャンルの作品を6本立てぐらいで見るんです。ほぼ半日、映画館にいる感じだよね。
養母は洋画が好きで、雑誌から切り抜いた『風と共に去りぬ』のクラーク・ゲーブルの写真を家計簿の表紙に貼ってました。おふくろには黒澤明監督の『七人の侍』の封切りに連れていってもらったことが忘れられません。どうしても見たくて、せがんでね。
ドアも閉まらないくらいに立ち見のお客さんでいっぱいの映画館で、おふくろは僕を肩車して、2時間以上耐えてスクリーンを見せてくれたんです。「母ちゃん、もうちょっと上がらないと見えねえ」「このぐらい?」なんていう会話を今も覚えています。晩年、テレビで放送されたこの作品を見て、おふくろが「ようやくストーリーが分かったよ」って(笑)。思わず泣けちゃいましたね。
根っこは故郷・福島にあり
──福島といえば東日本大震災、そして原発事故が忘れられませんが、あの日はどちらにいらしたんですか。
西田 テレビ番組収録のため大阪に向かう新幹線に乗っていて、熱海に着く手前のトンネルでドーンと来ました。大阪に着いたのが夜の9時過ぎ。ラジオのニュースをずっと聞きながら「原発止めなきゃだめだよー!」って絶叫したのを覚えてますね。
──西田さんは現地で支援の活動をしてらっしゃるんですよね。
西田 支援といっても物理的には限られているし、僕らのような仕事の人間は気持ちの上での応援しかできないですよね。どういう形で支援すればいいのか、ずっと考えてましたけど、現地で一人一人の顔を見て話すこと、話を聞いてあげることしかないと思い、被災の年にはずいぶん足を運びました。
震災直後に行ったときは、シーンとして物音がしませんでしたね。鳥の鳴き声や遠くで鳴く犬の声が響いてきて、寂寞とした気持ちが湧いてきてつらかったです。昨日まであんなに頑張っていた日常の暮らしが、こんなにぴたっとなくなっちゃうものなんだと、つくづく感じました。
※この記事は2024年10月26日放送「深夜便アーカイブス~西田敏行さんを偲んで」(初回は2018年4月28日・5月26日放送「舌の記憶~あの時あの味」)を再構成したものです。
愛情深く育ててくれた両親や食べ物の記憶、「役者」としての生き方、「老い」との向き合い方など、続きは月刊誌『ラジオ深夜便』2月号をご覧ください。
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