むらさきしきが『源氏物語』を書き始めたのはなぜか? ドラマの今後の見どころは? 時代考証として脚本づくりを支えてきた倉本一宏氏に、歴史学者の立場から解説してもらった。


彰子の成長に合わせて『源氏物語』を書き続けるのが、紫式部の重要なミッション

――中宮・彰子に仕えた紫式部は、どういう仕事をしていたのでしょうか?

きさきに仕える女房にょうぼうの仕事は基本的には雑用で、政治的な役割としては公卿くぎょうたちと后との取り次ぎを担います。じょうろう女房、ちゅうろう女房、ろう女房と、三段階に分かれていまして、紫式部はおそらく中﨟で、中の上ぐらいだと思います。雑用もこなしながら、しょう*1の教養をつけるとか、和歌の指南をするとか、漢籍かんせきを時々講じるなどの役割です。

ただ、普通の女房と違って、紫式部には『源氏物語』を書き続けるという重要なミッションがありました。それが、いちばん大きな仕事だったと思います。ほかの女房のような雑用は、それほどしてなかったんじゃないでしょうか。

*1…彰子のドラマでの読み方は「あきこ」。

——『源氏物語』を書き続けなければいけない理由は?

私の考えでは、『源氏物語』を書き始めたのは(彰子の父親)藤原道長ふじわらのみちながからの要請、あるいは命令によるものだと思います。彰子、ひいては一条いちじょう天皇に読ませる目的で。

道長は、彰子のいる藤壺に『源氏物語』を置いておき、そこに一条が渡ってくることを期待した。というのは、紫式部が物語を書き始めた時期や、女房に上がるタイミングが、彰子の成長とぴったり合っているんです。

仮に全部を書き終えて、藤壺にポンと『源氏物語』全巻を置いてきたら、それで紫式部は用済みなわけです。一条が自分のところに持って帰って読むかも知れませんから。だから物語の最初の方を書いて、「続きは今、書いていますから、ここへ来れば読めますよ」というのがポイントで、彰子の成長に合わせて書き続けるというのが、紫式部のミッションだったと思います。

——現代だと、連載漫画の掲載を楽しみにしているような感じでしょうか?

昔、東京大学を辞した夏目漱石が朝日新聞に入社して、そこだけで小説を発表しましたよね。漱石先生の小説を読みたければ新聞を購読してください、ということですが、それと似た感じでしょうか。もっとも紫式部の場合は、物語で一条天皇の興味を引き、彰子のところに足を向けさせて、おうを誕生させるという、もっと重大なミッションですけれども。

『源氏物語』を書き始めた時期について、国文学の世界では「夫に死なれた寂しさから書き始めた」とされています。もちろんそれもあったかもしれませんが、彰子が中宮になったものの、一条天皇はまったくお渡りやお召しがない、そういう時期でもあるんです。

一般的な説だと、紫式部が『源氏物語』を途中まで書いて彰子の女房に上がったのは、ドラマと違って寛弘かんこう3(1006)年の12月29日です。そのころに彰子と一条の間に男女の関係ができて、今まではお飾りだった中宮が本当の夫婦になった。その翌年に道長が金峯山きんぶせんもうでをして、寛弘5(1008)年の2月に彰子の懐妊がわかって、9月に皇子が生まれています。

となると、寛弘3年12月までに物語がある程度形になったので、それを持って紫式部は女房として藤壺に上がった。そして『源氏物語』を一条に読ませて喜ばれたという、道長の筋書き通りに進んだのではないかと思っています。


脚本に関わるメールのやり取りが膨大で、9月初頭で3万行を超えています

——以前「史実は史実として、ドラマはドラマとして楽しんでほしい」とおっしゃっていましたが、先生ご自身はドラマとしての「光る君へ」をどのようにご覧になってますか?

私は普段ドラマというものを全く見ないので比較することができませんが、ドラマとしては非常にうまく作ってあるなと思います。それは、やっぱり脚本の大石静さんの力と、チーフプロデューサーの内田ゆきさん、チーフ演出の中島由貴さんをはじめとする制作スタッフ、俳優さんの大きな熱意と能力があるからだと思います。特に感動しているのは、キャストの皆さんの演技ですね。

大石さんの台本のト書きには登場人物の感情が書いてあることがあります。「本当は帰りがたいけど、ちょっとは誘ってほしいような気持ち」などと書いてあって、そんなこと、どうやって(視聴者に)伝わるんだ?と感じた私は、考証会議で「セリフにした方がいいんじゃないですか?」とよく言うのですが、内田さんが「大丈夫です。俳優さんたちにはできます」とおっしゃっるんですよ。

疑問に思いつつ実際に映像を見てみると、視線や表情、体の向きなどで、まさにそう感じられるように演じていらっしゃる。やっぱり、プロっていうのはすごいんだなと、感心しております。

——時代考証の際に、気をつけていることは何でしょう。

私が時代考証をさせていただく際のスタンスとして、史実がわからないところを創作するのは自由。だけれども、あまりにも当時の常識から外れてもらっては困るし、史料と違うことを描かれるのは困る、とお伝えしています。

例えば、紫式部は幼少のころの史料が全然ないのですが、道長のほうは元服したぐらいから藤原実資さねすけが書いた日記『しょうゆう』に出てきます。他の人たちも、だいたい『小右記』に登場します。

そこから時代が進むと藤原行成ゆきなりの日記『ごん』が始まり、道長も政権に就いてからは『堂関白どうかんぱく』を書き始める。それらに書いてある、つまり「史実はこうだ」とわかっているのに、それと違うことをやられると困ってしまいます。

ただ、ある程度のことは、ドラマ上の演出と思って納得しています。よく指摘されているところでは、建物が吹きさらしで寒いだろうとか、男女がを隔てずにしゃべっていておかしいとか問題視する方がいますけど、そうしないと俳優が見えないわけで、じゃあ顔もわからないまま喋っているドラマでいいんですか?と反論したいところです。あれはあれで違和感はないと思っています。

——時代考証はどのようにやるのでしょうか。

台本を1ページずつめくりながら考証会議をするのですが、実はその前に膨大なメールのやりとりをしています。スタッフからの問い合わせに史料を示したり、歴史学者としては本当はやってはいけないけれど、推測で回答したりして……。その推測がそのまま採用されることもよくあります。

1回の考証会議自体は2時間ぐらいですけど、その前段階に相当な時間が掛かっているんです。脚本に関わるメールは過去のものもまとめて保存していますが、9月初頭の時点で3万行を超えています。文字数にすると128万字、原稿用紙3200枚くらいですね。字数だけだと『源氏物語』の1.4倍くらいになります。

——考証会議ではどのような話し合いが行われるのですか?

例えば「ちょうとくの変」の描写では、多くの本は『えいものがたり』に沿って書いてあります。でも、『栄花物語』は歴史物語なので、「(藤原隆家たかいえの放った)矢がざんいんの袖の下を貫いた」など、めちゃくちゃなことが書いてあるんですね。

そんなことはありえないので、考証会議で内田さんと“交渉”して(笑)、矢は射たけれど、花山院そのものを狙ったわけではないといった感じにしてもらいました。いわゆる歴史物語史観と言いますか、間違った常識は覆したいと考えています。

実資がちょうど使しの別当べっとうだった時期なので、『小右記』には実資と道長と一条のやり取りが日を追って詳細に書いてあります。その記述に沿って、作ってもらいました。

ただ、採用してもらえない意見もあって、実資が(女院にょいんせん*2を介して隆家の助命を一条天皇に取り次いだことが『小右記』に記述されているんです。実資と隆家はすごく仲がよくて、家も隣同士だったんですね。(隆家の兄の)これちかのことはあまり好きじゃないのか「あんなやつは九州に行っちゃえばいい」と思っていたようですけど、隆家はみんなから愛されていたようで……。

それをドラマで描いてほしいと、かなり強く内田さんに頼んだんですが、採用してもらえませんでした。それはちょっと残念です(笑)。

*2…詮子のドラマでの読み方は「あきこ」。


紫式部と実資がソウルメイトだったんじゃないかというくらい関係が深くなる

——紫式部が『源氏物語』を書き終えた後の人生がおもしろいと話されていましたが、具体的にはどんなことですか。

一条天皇が死んでからは、むしろ紫式部と実資がソウルメイトだったんじゃないかというくらい、関係が深くなるんです。

『紫式部日記』には、「(実資に)声をかけたところ、ご立派だった」と書いてあるんです。人見知りの紫式部が、わざわざ実資に話しかけたのは関心があったからでしょう。そして『小右記』にも「(彰子の)女房と一緒に泣いた」という記述があるんです。その女房は紫式部と思われるのですが、実資も人前で泣くような人じゃないですから、この2人はよほど心が通じ合っていたんだろうと思います。

でも、そこまでは描かれないんじゃないでしょうか。なにせ『源氏物語』を書き始めたのが第31回ですから(笑)。私は、紫式部は道長が死んだ後も長く生きたと考えていますが、このペースだと彼女の人生の途中までしか描かれないのかなと、諦めています。

——これまで実資が描かれたドラマはなかったと思いますが、いかがですか?

実資に限らず、行成だって藤原きんとうだって、ほとんど取り上げられてなかったですね(笑)。実資は、台本を読んでいると、実際にもああいう感じの人だったんだろうなと思います。史実パートは私の本を読んで台本を書いているからかもしれませんが。まだそれほど描かれてはいないのですが、実際は、道長は実資とすごく仲がいいんですよ。

これが道長の息子のよりみちの時代になると、頼通は実資に頼りっぱなしで、道長が死んでからは実資政権と言っていいぐらい頼通は1人で何もできない。道長が生きていた時代には道長に聞いていたのが、道長が死んだら頼通は実資に何でも聞いていて、実資がすべてを仕切っている感じなんです。

でも、「実資=秋山竜次さん」のイメージが定着してしまうのは、ちょっとどうかな?と思っています。セリフはかなり適切なんですけど、見た目が……(笑)。ふくよかなのは、別に構わないんです。当時の人は、みんなふくよかですから。

でも他の人がほっそりしたイケメンなのに、彼だけふくよかで色が黒いところには少し違和感を覚えます。ネットでも言われていますけど、『小右記』を読むたびに秋山さんの顔が浮かんでくる……というのは、こちらとしてはちょっと問題だなと思っています(笑)。

——この先に起きる歴史的な出来事で、注目すべきものがあったら教えてください。

道長政権になってからはドラマ的にクライマックスと言えるような出来事が少ないんですよね。

せいぜい寛弘5(1008)年と寛弘6(1009)年に彰子に皇子が生まれるとか。寛弘8(1011)年に一条天皇が亡くなる際に、後継に(亡き皇后・てい*3が産んだ)敦康あつやすと(彰子が産んだ)あつひらのどちらを選ぶか、ちょう3~4(1014~15)年にかけてさんじょう天皇をどうやって辞めさせるのかとか、それくらいなんです。

ただ、いちじょう天皇の時代の寛仁かんにん3(1019)年に「にゅうこう」(東じょしん族の海賊が九州を襲撃した事件)がありまして、そこで奮戦して外国勢力を撃退したのが、当時ざいのごんのそちを務めていた隆家なんです。ロケがものすごく難しそうなので、どう描かれるかわかりませんが、昔「北条時宗」で元寇げんこうをやったぐらいだから、何とかなるのではと期待しています。

*3…定子のドラマでの読み方は「さだこ」

——道長の権力者としての姿はどのように描かれることを期待していますか?

娘の彰子に皇子が生まれ、道長が次の世代にも権力をつなぐことを考え始めてからの変貌ぶりが楽しみですね。

江戸時代以来、「道長=傲慢ごうまんな権力者」と考えられてきましたが、古記録に残る道長はそうではありません。大石さんも内田さんも道長を評価してくれているので、あまりブラックな人間にはならない、最後まで人のい人間でいってもらえればと思います。


「光る君へ」を通して、みなさんが歴史にも関心を持ってくれるとありがたい

——最後に、今回「光る君へ」で時代考証をされたことで、研究者仲間からの反響はありますか?

最近はあまり学会にも行けなくなっているのですが、かつての職場の研究者や、届いたメールを見ると、おおむね好評のようです。平安時代を研究している歴史学者の中には「あれは許せない」と言う人もいるかなと思っていましたが、親切な人が多くて(笑)。私には「おもしろかった」と言ってくれます。

——研究者の方たちも、平安時代を描いた大河ドラマを待ち望んでいらっしゃった?

実は「光る君へ」の時代考証をお引き受けしたときに、この作品が放送されることで平安時代史研究が盛んになるんじゃないかと思って、期待していたんです。普段は日の当たらない歴史学者や、若手の研究者たちがもっと表に出てくるかな、と。

それが、元気なのは国文学の人たちばかりで……。まあ研究者の数も文学の方が圧倒的に多いですし、歴史学者はどう対応していいかわからない状態なのかもしれません。ドラマの中には漢詩もたくさん登場しているのですが、残念ながらそちらは話題になっていないようです。

唯一の救いは実資の『小右記』で、これは秋山竜次さんの人気によるものだと思うのですが、私が書いた本も割と好評で、現代語訳全16巻の1巻目だけ増刷になったんですよ。あんなものが増刷になるなんて普通は考えられないのですが(笑)。面白い箇所だけ解説した一冊ものの文庫版『小右記』は現在7刷で、1万部を優に超えています。だから、だんだん一般の方も古記録に注目してくださっているのかもしれません。

「光る君へ」をきっかけに古記録の分野にも目を向けていただいて、「これまでは文学を基にイメージしていた平安時代は、実際にはこんな時代だったんだ」と、みなさんが歴史にも関心を持ってくれるとありがたいなと思っています。