ご高齢の方はおぼえておいででしょうが、ぼくたちの若いころに“青春のシンボルスター”として、石原裕次郎さんがいました。演技に加え、歌・楽器演奏にもすぐれた昭和の名優です。かれの「北の旅人」や「二人の世界」などの歌は、いい年をしたぼくのカラオケの持ち歌です。
その裕ちゃんに『嵐を呼ぶ男』という映画があります。裕ちゃんは楽団のドラマーで、ドラムを叩きながら歌うのです。
おいらはドラマー
という出だしで、
おいらが叩けば嵐を呼ぶぜ
としめくくります。
大河ドラマ(ドラマーではなく)の美福門院得子の行動をみていて、フッとこの古い映画を思い出しました。美福門院こそ、まさに平安末期の“嵐を呼ぶ女”だからです。
オトコ社会の朝廷内で、オトコたちを手玉にとり、“ここに女性あり”と堂々と政治をしきり歴史を動かす美福門院の行動はみごとです。上皇も法皇も摂関家もいいようにふりまわされます。
政略はオトコの得意とするところですが、美福門院の政略もけっして負けてはいません。
崇徳天皇に譲位させて、自身の子、躰仁親王を近衛天皇とした手腕はすごかったですし、その近衛天皇が亡くなったあとの、手のうちかたがまた素早いのです。
・崇徳上皇の弟雅仁親王(後白河天皇)の子である守仁親王を養子にした
・それだけでなく崇徳が天皇にしたいと思っている重仁親王も養子にしてしまった
・摂関家の藤原氏内のもめごとを利用し、忠実の長男の関白忠通を味方にし、忠通と対立する忠実・頼長父子をしりぞけた
つまり美福門院はオトコ社会をゆるがすドラムを叩きつづけて風をまきおこし、オトコどもを右往左往させたのです。これにはさすがの知恵者、頼長も手が出せなかったでしょう。
美福門院は、さらに武士を物色します。
(どの武士なら、いざというときに自分の役に立ってくれるだろうか)
と、能力と忠誠度をしらべました。そして、
(この武士なら)
と心のなかで白羽の矢を立てたのが清盛でした。
後白河天皇の即位と守仁親王の立太子によって、崇徳派の皇位継承は完全にのぞみを絶たれます。大きな嵐がやってくるのです。
(NHKウイークリーステラ 2012年5月18日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。