宗徳天皇は、鳥羽上皇の第一皇子です。母は待賢門院藤原璋子です。それなのに父(鳥羽)は崇徳天皇のことを、「おじご(叔父子)」と呼んでいました。
“叔父子”とは、「叔父さんにあたる子」というイミです。つまり、「この子は自分の子ではあるが実は“叔父”なのだ」ということです。なんとも屈折したイヤミな表現です。
なぜ鳥羽上皇がこんな表現をしたか、といえば、このころ朝廷内では、「崇徳天皇の母は璋子だが、父は白河法皇だ」といううわさがしきりだったからです。
このことは史的には、「保元の乱後にたかまったうわさだ」といわれます。歴史はつねに勝者のつづるものであって、敗者はボコボコにケナされますから、乱の敗者である崇徳天皇に汚名をきせてしまったのかもしれません。
しかし、乱以前からそういううわさが流れていたことも事実です。それは鳥羽上皇がまったく崇徳天皇を白眼視(白い目でニラミつける)し、冷遇したからです。なにかにつけ、
「おまえはわたしの子ではない」
ということを周囲に示したのです。
院政(上皇や法皇のおこなう政治)のはじまりは白河法皇だといわれますが、その法皇がなくなると、こんどは鳥羽上皇の院政がすさまじくいきおいを増します。そのすべてが祖父白河法皇の政策への“まきかえし”だ、といっていいでしょう。
・しりぞけられていた前関白藤原忠実の再登用と、その子頼長の登用
・待賢門院璋子を遠ざけ、藤原長実の娘得子(美福門院)を鳥羽上皇の女御にする
・やがて得子の生んだ皇子に皇位をゆずらせる(ここで崇徳天皇も上皇になる)
しかし新天皇となった近衛が即位後すぐ病死するので、またもや皇位継承が混乱するが、鳥羽上皇は自分の意志を通して崇徳天皇をおさえつける。
崇徳天皇の不満はつのり爆発寸前になります。この扱いの原因はすべて“おじご”にあったのです。
(NHKウイークリーステラ 2012年3月9日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。