10世紀中ごろに、大きな反乱がふたつありました。“平まさ​門かどの乱”と“藤原すみともの乱”です。将門の乱は東国でおこった“陸上(土)の乱”であり、純友の乱は瀬戸内海でおこった“海上(水)の乱”です。

将門は清盛とおなじ平氏の一族です。筑波山のふもとに領地をもつ一族内の土地争いが原因ですが、この乱がエスカレートして、将門はついに“東国のミカド(天皇)”を自称しました。

この将門を討ったのが平貞盛で清盛の先祖です。この事件が、貞盛系平氏の中央(都)進出のキッカケになりました。藤原純友は、伊予国(愛媛県)の国府の高級役人でした。

このころの日本は六十数か国に分けられ、それぞれかみ(知事・長官)が派遣されていました。その下に、すけ(次官)、じょう(三等官)がおかれ、現地採用の役人を指揮して、地域行政をおこなっていました。

純友は掾でした。が、任期が満了しても都にはもどりません。「はやくもどってこい」という朝廷の催促にもしらん顔です。それだけでなく​振ぶり島(愛媛県の宇和島沖の島)に住み、海賊をあつめはじめました。そして海上での略奪をはじめたのです。

イラスト/太田冬美

名門・藤原家に生まれながら純友がとった行動に、天下は騒然としました。おなじころ将門の乱がおこり、「ふたりは心をあわせている」とうわさされたので、よけい社会不安がつのりました。が、ふたりがしめしあわせて乱をおこした事実はありません。

純友は南海・山陽であばれまくり大宰府(朝廷の九州支社)まで占領しましたが、討伐軍が派遣され討たれます。ですから清盛の時代にも、「瀬戸内海に海賊が出た」ときくと朝廷も地方もこの純友のことを思いだすのです。

純友がとくにねらったのが、朝廷に納める年貢や貢ぎ物でしたから、朝廷は財政を考えるうえでも海賊をほうっておけませんでした。

この海賊討伐に目をつけた父・忠盛、祖父・正盛はさすがです。ふたりの着眼がどれほど清盛の立身に役立ったかわかりません。広島の厳島神社は“海の神社”ですが、瀬戸内海を支配する平氏のステータス(勢威)のシンボルともいえるでしょう。

(NHKウイークリーステラ 2012年2月17日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。