月刊誌『ラジオ深夜便』にて、2022年4月号より連載している「渡辺俊雄の映画が教えてくれたこと」をステラnetにて特別掲載。「ラジオ深夜便」の創設に携わり、現在「ラジオ深夜便」の「真夜中の映画ばなし」に出演中の渡辺俊雄が、こよなく愛するラジオと映画を熱く語る。

『オズの魔法使』で洋画に目覚めた私でしたが、近くに洋画の上映館はなく、しばらくはる機会がありませんでした。テレビの夕方の時間に西部劇など古い洋画が放送されるのを観ていましたが何となく物足りません。そんな時、本屋で立ち読みした雑誌『映画の友』で生涯の映画の師となるよどがわながはるさんの存在を知るのです。

神戸に生まれ育った淀川さんは、幼少期から古今東西あらゆる映画を鑑賞、若くして映画会社に勤め、戦後は映画雑誌の編集者となり、あのおしゃべりがそのまま原稿になったような独特な文体で、数々の名作を紹介していました。その中の一文「私は人生で大事なことはすべて映画から学んだ」に心打たれた私は「僕もこんな生き方をしてみたい」と強く願ったのです。

淀川さんがテレビに登場したのは1960年、私が11歳の時でした。テレビドラマ「ララミー牧場」本編の前後に見どころやこぼれ話を巧みに入れるミニ解説で本領を発揮し、一躍お茶の間の人気者となります。

そして、各回の終りにはあの「サヨナラ、サヨナラ」で締めくくるスタイルを確立します。さらに、1966年に始まった「日曜洋画劇場」では世界の名作をとりあげ、映画は俳優だけではなく、監督や脚本家、カメラマン、美術などさまざまなスタッフに目を向けるとより深く楽しめるということを教えてくれたのです。何よりも、映画が好きで好きでしかたがない、という語り口が大好きでした。

あこがれの人、淀川さんにお会いしたのは、NHKに入り20年近くたってから、ラジオのインタビュー番組でした。緊張しましたが、私が異常に映画好きなのがわかると意気投合し、「あんた、そんなに映画が好きなら、きっとそのうちいいことあるよ」と言ってくださいました。

その後、何度か出演をお願いすると、どんなに忙しくても「あんたの仕事なら、喜んで行きますよ」と快諾してくれたのは、映画の同志に対する淀川さんの思いやりだったのでしょう。

そして、1998年に私は予期せぬ異動で「衛星映画劇場」の支配人にばってきされます。3か月後、黒澤明監督が88歳で亡くなると、特別番組を作るよう命じられました。

きゅうきょチームを編成、各方面に折衝し貴重な映像を集める作業を進めながら、黒澤監督とかかわりのあった人々へのインタビューを開始します。野上照代さん、仲代達矢さん、香川京子さん……そして、東宝宣伝部時代に黒澤監督と親友になったという淀川さんのもとへも参上しました。

場所は定宿にしていたホテルの一室。体調が良くないというので短時間で切り上げようとすると、急に厳しい顔つきで「もっと聞きなさいよ」と一喝されました。再びマイクを向けると、デビュー作の『姿三四郎』から遺作となった『まあだだよ』まで、全30作をきっちり1分ずつ順番をたがえることもなく淀川流に解説してくれたのです。

こうして、「黒澤明とその時代〜全30作の軌跡」と題した私の支配人就任第一作は無事に完成。そのわずか2か月後の11月11日、淀川さんは89歳でこの世を去ります。まるで黒澤明監督のあとを追ったかのようでした。

渡辺俊雄(わたなべ・としお)
1949(昭和24)年、東京生まれ。’72年NHKにアナウンサーとして入局。地方局に勤務後、’88年東京ラジオセンターへ。「ラジオ深夜便」の創設に携わったあと、アナウンス室を経て「衛星映画劇場」支配人に就任。「ラジオ深夜便」の「真夜中の映画ばなし」に出演中。

(月刊誌『ラジオ深夜便』2022年6月号より)

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