執筆するのは、NHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」をはじめ、多くの名作ドキュメンタリーを手がけてきた映像ディレクター・著作家の貴志謙介氏。全30回(予定)にわたり、ウクライナを軸に世界情勢とその背景にある歴史をひもといてゆく。
「神童と魔女」その二
・・・レオは二枚目のカードをめくった。
気がつけばデッキから、異国の街並みを眺めていた。
空の彼方から、おばあさんの声が響く。
「神戸の港だよ・・ウクライナから遠くはなれた、日本の港町」
「・・・日本?」
「芸術を愛する、うるわしい国さ・・・おまえは幸せを見つけるだろう」
「・・・それじゃ、この国が僕の『安息の地』なの? 」
おばあさんはだまりこむ。
空の輝きが消えた。なにものかが轟音とともに近づいてくる。
1928年、レオ・シロタは、極東にむかう演奏旅行の準備に追われていました。
大戦の後遺症に苦しむ西欧をさけて、東へ向かうことにしたのです。
第一次世界大戦は、音楽の都ウィーンを、飢餓と犯罪の都に変えてしまいました。廃墟となったヨーロッパの都市は、どこも荒廃しています。
大戦の犠牲者は1700万人。巻き込まれた国は30を超えます。大戦はパンドラの箱をあけてしまったのです。そこから、あらゆる災厄が飛び出しました。
化学兵器。軍産複合体。死の商人。言論の弾圧。監視社会。プロパガンダ。情報戦。テロ。スパイ。秘密工作。大量の難民。ジェノサイド。強制収容所。
第一次大戦は、わたしたちがいま経験しているあらゆる暗黒の源泉でした。
いまもウクライナへの侵略をはじめ、世界中でおなじ愚行がくりかえされています。人類は、いまだに大戦が生み出した世界を生きているかのようです。
大戦は、音楽や文化のありかたもがらりと変えてしまいました。
ハプスブルク帝国、ドイツ帝国、帝政ロシア オスマントルコ、四つの大帝国が、信じられないほどあっけなく崩壊したせいで、華やかな社交界は姿を消します。
オペラや交響曲は、貴族やブルジョワというパトロンを失ってしまったのです。
戦前、クラシック音楽を支えてきた教養市民は没落。知識人は社会的なステータスを失いました。
ヨーロッパは、ジャズを基調としたアメリカ音楽に席巻されます。
音楽の世界でも、世界の覇権を握ったのはアメリカでした。
ヨーロッパの一流ホテルは専属のジャズ楽団と契約し、毎晩のごとく、狂熱のダンスパーティを開きました。音楽をめぐる風景は一変しました。
すでに大戦中から、多くの才能ゆたかな作曲家や演奏家が、アメリカに亡命しました。たとえば、ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、ハイフェッツ、プロコフィエフ、ミルシテイン、ピアティゴルスキー。最後の三人はウクライナ生まれです。
極東というフロンティア
大戦後の荒廃したヨーロッパでは、レオほどのピアニストでも、戦前のような活躍はむずかしかったかもしれません。
敗戦後のウィーンでは、だれもが苦しい生活を強いられました。妻アウグスティーネの家族がウクライナに残してきた土地や財産は、すべてソビエトに没収されていました。
レオに助け舟を出したのは、弟のピエール・シロタでした。
大戦前、ピエールは、パリを代表する音楽プロデューサーに成長していました。ディアギレフのバレエ団、ストラヴィンスキー、シャリアピンなど世界的な音楽家ばかりでなく、ミスタンゲット、モーリス・シュバリエなど、一世を風靡した大スターのマネジメントもこなし、音楽業界で重きをなしていました。
ピエールは、レオに極東への演奏旅行をすすめました。
極東には、亡命音楽家のひしめく、ハルビンや上海、そして神戸や東京という新興の音楽都市が成長していました。
すでに極東では、亡命ラトヴィア人のアレクサンダー・ストロークスという大興行主があらわれ、ルビンシュタイン、ハイフェッツなどの巨匠、伝説の大歌手シャリアピン、世界最高の舞踊家アンナ・パヴロワなど、超大物音楽家を招いて、上海、ハルピン、東京で音楽会をひらき、大成功をおさめていました。
レオ・シロタの極東ツアーも大成功でした。ウィーンの人気ピアニストは、どこの街でも大歓迎されました。
1928年、レオはハルピンにたどりつきました。ハルビンには、革命をきっかけに数万人の亡命者が流入し、ロシア人、ウクライナ人、ポーランド人、ユダヤ人、タタール人など、さまざまな民族がひしめいていました。
ハルビンでレオの名演を聴いた観衆のなかに山田耕筰がいました。戦前の日本を代表する作曲家ですが、音楽プロデューサーとしてもすぐれていました。すぐにホテルにかけつけ、レオに来日を懇願します。
山田の申し出を快諾したレオは、1928年11月から5週間、16回の演奏会を日本でひらきました。大戦の傷をまぬかれた日本は、都市の近代化が進んでいて、裕福な「教養市民」がレオの演奏会へ殺到しました。レオ・シロタは、日本の聴衆から「まるで王様のようなあつかい」を受けました。
「父はユダヤ人に対して偏見をもたない日本が好きだった」と娘のベアテは明言しています。ユダヤ系ウクライナ人であったシロタ。たとえ演奏家として名声を博しても、ヨーロッパでは、反ユダヤ主義の危険から解放されるわけではありません。
レオは日本公演を終え、いったんウィーンへ帰ります。悲しいことに、ウィーンの混乱はますます悪化していました。ヨーロッパの主要都市はすさまじいインフレに苦しみ、失業者が群れをなしていました。レオの怖れる、移民や亡命者へのヘイトが、エスカレート。不穏な空気がたちこめていました。
ヨーロッパ各国で予定されていたレオのコンサートは、次々とキャンセルされました。どのような事情があったかはわかりませんが、亡命音楽家シロタにとって、ウィーンはもはや安息の地ではなくなっていたのです。
不安の日々を送るシロタ家に、再来日をもとめる熱烈な手紙が届きました。1929年秋、レオはふたたび日本に旅立ちます。半年間の予定。今度は、妻のアウグスティーネ、一人娘のベアテも一緒です。
日本の音楽界に尽くす
半年間の日本滞在はまたたくまに過ぎ去りました。しかし、レオは帰国しませんでした。というより、帰国できなかったのです。理由はふたつ。
ひとつは、ウォール街の暴落です。1929年、NYから瞬く間に世界にひろがった世界大恐慌は、すでに病人であったヨーロッパの経済を破壊しました。
もうひとつは、1930年9月、ドイツの総選挙でナチスが第二位に進出したことです。ユダヤ人への迫害が激しくなることは火をみるよりあきらかです。
レオは日本に腰をおちつけ東京に居をかまえました。東京市赤坂区檜町10番地。乃木神社の近くです。日本では西洋音楽にあこがれる富裕層が増えていて、個人教授の希望者はひきもきらず。生活の心配からは解放されました。
レオの才能が買われ、上野の東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授に就任したのは、日本滞在二年を経た1931年でした。
日本におけるレオ・シロタの活躍に詳しい山本尚志さんによれば、レオは園田高広、藤田晴子、豊増昇、ヴェデルニコフといった、きわめて優秀なピアニストを育て、日本の楽壇に、はかりしれない貢献を果たしました。
レオ・シロタは演奏家としても聴衆の心をつかみました。まれにみる超絶技巧、みずみずしい楽想。戦前は、日本で一番人気のあったピアニストのひとりでした。
日本のオーケストラ、新響との名演も数多く残しています。新響は、いまのNHK交響楽団の前身です。
亡命ウクライナ人からダンスを学んだ文豪・谷崎潤一郎は、阪神間モダニズムの時代をいきいきと描いた代表作「細雪」に、レオ・シロタを登場させています。
「生憎今日の会というのは、阪急御影山の桑山邸にレオ・シロタを聴く小さな集りがあって、それに三人が招待されているというわけで、雪子はほかの会ならば棄権するのだけど、ピアノと聴くと行かずにはおられないのであった」
レオ・シロタを聴くことが、モダンな感性の象徴であったことがわかります。
レオは、頻繁に神戸をたずね、コンサートや個人教授をおこなっていました。
地元では、幼いベアテを連れて海岸で夏休みを楽しんでいたシロタ家の記憶が伝説のように残っています。
神戸の深江文化村と縁が深いふたりの天才作曲家、貴志康一と大澤壽人の帰朝公演を支えたのもシロタです。もちろん神戸の深江文化村にあつまる亡命音楽家とも親しく、ウクライナ出身のモギレフスキーとは気心が通じたようです。
東京・乃木坂のシロタ家では、アウグスティーネの手料理で、来日した大物音楽家をもてなしました。ベアテの記憶では、ルビンシュタイン、シゲティ、シャリアピン、など、錚々たる世界の巨匠が、シロタ家を訪れたといいます。
かつてウィーンにおけるシロタ家は、綺羅星のような文化人の集うサロンでした。東京での大芸術家との交流は、シロタ夫妻にとって、戦前の華やかなウィーンの記憶をよみがえらせる幸せなひとときだったのではないでしょうか。
ところが、その幸せも、しだいに危うくなってきます。
1933-悪夢のはじまり
岐路となる年、1933年(昭和8年)がやってきました。世界にとってもシロタにとっても、これほど不吉な、まがまがしい年はなかったでしょう。
かつてレオがウィーンで音楽を勉強していたころ、おなじウィーンで絵の勉強をしていた貧しい画学生が、ついにドイツ第三帝国の頂点に立ったのです。
独裁者ヒトラーの誕生です。
おなじ年、ウクライナでは、スターリンが農民から食糧をとりあげ、300万とも500万ともいわれるウクライナ人を餓死に追い込みました。ホロドモール、「飢餓殺人」です。
ヒトラーの悪霊は、日本にも浸透し始めます。
1936年(昭和11年)、日本はナチス・ドイツと手を握り、日独防共協定を締結。
1938年には、官民挙げて、ヒトラー・ユーゲントの来日に熱狂しました。
日本は、手放しにヒトラーを礼賛する国になりました。
レオもアウグスティーネも、日本社会の危うい変化をいやおうなく肌で感じていたことでしょう。安息の地であったはずの日本が揺らぎはじめました。
日本にとどまるべきか。それともふたたび亡命を決断すべきなのか。
(第11回へつづく)
【FEEL ! WORLD】
今回は、シロタの教えを受けた二人の弟子=巨匠のみごとな演奏をお聴きください。
申しわけありませんが、レオ・シロタの音源はいますこしお待ちください。
注目すべき復刻音源がまもなく公開されます。
■まずはアナトリー・ヴェデルニコフ。かれはハルピン生まれ、日本でレオ・シロタの教えを受けた天才です。その後モスクワでネイガウスの指導をうけました。ネイガウスは巨匠リヒテル、ギレリスの師匠として有名ですが、三人ともウクライナ生まれです。ヴェデルニコフはシロタふくめウクライナの天才4人と縁があったことになります。
ヴェデルニコフは、極東や日本にいたため、ソビエト当局に警戒され、海外に出て活躍することを禁じられました。「悲劇の巨匠」とよばれるゆえんです。まずはこの映像をごらんください。
⦿ヴェデルニコフ プロコフィエフ
Suggestion Diabolique op. 4 no. 4 1975録画
https://www.youtube.com/watch?v=w0En8-7kxLU
ちなみにプロコフィエフもウクライナ生まれの作曲家です。ロシア革命の直後、日本経由でアメリカに逃れました。
■もう一曲。レオ・シロタを日本にまねいた山田耕筰が心酔していたスクリャービンをヴェデルニコフの名演でお聴きください。
⦿ヴェデルニコフ スクリャービン
Preludes Opus 11
https://www.youtube.com/watch?v=sGCOD_-GsCY
■レオ・シロタの愛弟子・園田高広さんが近衛秀麿と共演した貴重な映像が残っています。園田さんは当時61歳。
⦿園田高広 ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第5番 指揮・近衛秀麿 日本フィルハーモニー交響楽団 1959年
https://www.youtube.com/watch?v=LfSr8XXEmqo
■おなじ曲をウクライナ出身の巨匠ホロヴィッツが演奏しています。亡命音楽家ホロヴィッツは連載の後半アメリカ篇に登場します。
⦿ホロヴィッツ ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第5番 指揮フリッツ・ライナー
RCAビクター交響楽団 1952年録音
https://www.youtube.com/watch?v=ArDgOBmhkDc
京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。