もはや希望はない……戦争や迫害から逃れるには、ここを出ていくしかない。
故郷にわかれを告げ、嵐の海を漂流し、はてしない厳寒の荒野をこえ、見知らぬ土地へ。
いつの時代であろうと、ディアスポラ(移民)の運命は、過酷というほかありません。
ウクライナの人々は、20世紀、くりかえし、大きなディアスポラを経験しました。
革命と独立戦争、2度の世界大戦、チョルノ―ビリの原発事故、ソ連崩壊、ロシアの侵略。
ウクライナの大地に大量の血が流されるたび、膨大な難民が世界に離散していきました。
現在、世界60か国に2000万人のディアスポラが暮らしているといいます。
今回は、大きなディアスポラをもたらした5つの波をとりあげ、ウクライナ移民の苦難の百年をふりかえりたいとおもいます。
最初の波 ユートピアを夢みて
大規模なウクライナ・ディアスポラは、19世紀末にはじまります。ハプスブルク帝国支配下の西ウクライナから、50万人が新大陸へ向かったのです。
そのころ、アメリカの炭鉱会社は東欧に乗り込み、貧しい労働者に夢のような話をもちかけていました。低賃金の労働者を大量に雇う魂胆です。
エージェントは、ことばたくみに勧誘します。
「報酬はウクライナの15倍から20倍、新大陸には自由がある。搾取もなければ迫害もない」
帝国の圧政のもとで苦しむ農民は、わらをもつかむ思いで、移民船に乗り込みます。
ところが、ネズミのはいまわる狭い船室に押し込められ、疫病に苦しみました。
航海中の死亡率は4%。移民が50万人なら、2万人が亡くなったことになります。
ようやくたどり着いたアメリカ。連れていかれたのは北東部、炭鉱や工場のひしめく産業地帯でした。
低賃金、長時間労働、危険な作業。
しかもアメリカの労働者からは「スト破り」要員とみなされ、暴力を受けます。
鉱山会社は、「渡航費および家賃」という名目で給料をむしりとります。
移民は英語が読めません。不利な契約書にサインをさせられます。だまされて、ハワイの砂糖工場に売られた移民もいます。
しかし、彼ら移民の過酷な労働こそが、アメリカの繁栄を根底で支えていたのです。
ウクライナからの移民は本来、永住するつもりはなく、出稼ぎのつもりでした。
しかし1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ウクライナは主戦場のひとつになり、さらに革命と内戦が勃発して、もはや帰国は絶望的になりました。
あるディアスポラ2世は、こう証言しています。
「第一次大戦のさなか、ロシアで革命が勃発したとき、父は10代でした。父の世代の移民は、ソビエトの革命政権が生き残るとは思っていませんでした。皆、そのうち故郷に帰る日が来ると信じていた」
「しかしソビエトは生きのびて、ウクライナ文化を破壊し、知識人を大量に殺しました。それ以来、ウクライナの伝統を守ることが私たちディアスポラの使命になったのです」(「New York」リトル・ウクライナ特集号/2022年4月発行)
おなじころ、大量のユダヤ系ウクライナ人がロシア帝国からアメリカへ亡命しました。
動機はロシアが反ユダヤ主義を強めたこと、そしてポグロム(ユダヤ人虐殺)の恐怖です。
ウクライナからの移民はアメリカだけでなく、カナダにも定着しました。
いまカナダのウクライナ・ディアスポラは120万人。アメリカの96万人を超えています。
かれらは多民族社会カナダで名誉ある地位を占め、ウクライナへの支援を強化しています。
ちなみにウクライナ支援の先頭に立つフリーランド副首相はディアスポラの子孫です。
とはいえ、百年の道のりは険しく、ウクライナ移民は長く辛酸をなめてきました。
20世紀初頭、カナダは、西部の大平原を開拓するため、大胆な移民政策を断行。
当時の記録によれば、のぞましい移民の条件とは、
「先祖代々農民で、子沢山で丈夫な妻を持ち、羊皮のコートを着た頑強な男」
(1922年、内務大臣の発言)
大平原の開拓がいかに困難か、為政者は知っていたのです。
第一次大戦までに、57万人のウクライナ人が、カナダに移民しました。
大自然と格闘するウクライナ移民のはたらきは、まことにめざましいものでした。
ウクライナ移民は、カナダの大動脈、パシフィック鉄道の建設にも大きく貢献しました。
にもかかわらず、ウクライナ移民は、理不尽な差別と敵意に苦しめられました。
カナダはイギリス系移民が優勢で、「異民族」のウクライナ人は蔑視されたのです。
第一次大戦がはじまると、ハプスブルク帝国出身のウクライナ人8万人が「敵性外国人」の烙印を押されて、強制収容所に監禁されました。
しかしウクライナ移民は決して屈することなく、森を切り開き、大地を耕し、差別にも打ち勝って、カナダの土台を築きました。偉大な功績です。
第2の波 恐怖からのエクソダス
1917年、第一次世界大戦のさなか、革命によって、帝政ロシアは崩壊しました。
この機を生かし、翌1918年1月、ウクライナ人民共和国が独立します。
しかし、残念ながら、悲願の独立は、わずか2年で、ソビエトに奪われてしまいました。
ウクライナの独立がやぶれるとともに、あらたに大量の移民が発生、欧米、極東、アジアへなだれこみます。ウクライナのディアスポラ、「第2の波」が始まったのです。
すでに帝政ロシア末期、100万のウクライナ人が、極東に移住していました。かれらが開拓した広大な土地は、旧満州に隣接し、「緑ウクライナ」と呼ばれていました。「緑ウクライナ」は、独立国家を夢見て、軍隊の養成にさえ着手していました。
しかし1922年、ソビエト政権の成立を嫌って、ウクライナ人はいそぎ満洲へ大移動します。かれらは満州でも独立運動を続けましたが、残念ながら実を結びませんでした。
日本へ向かうディアスポラもいました。音楽家が多く、ヴァイオリニストのモギレフスキー、ピアニストのシロタ、指揮者のメッテルなど、名演奏家が来日、若い才能を育て、日本の音楽界に貢献しました。
しかし、日中戦争がはじまり、戦時色が濃くなって、外国人への迫害が深刻になります。
亡命者の多くは日本を去り、アメリカやオーストラリアへ向かいました。
「リトル・ウクライナ」の誕生
ニューヨークには、すでに、北米最大のウクライナ人コミュニティが生まれていました。
イーストサイドの移民街、通称「リトル・ウクライナ」には、教会やウクライナ語学校、ウクライナ人向け信用金庫、新聞社など、移民のための組織が集中しました。
南のブロックには、小さなシナゴーグ(ユダヤ教の教会)が点在し、ウクライナからやってきた膨大な数のユダヤ人移民が暮らしていました。
かつての移民街ロウワー・イーストサイドには、ニューヨークにおける移民生活の記録を集めた「テナメント博物館」があり、わたしも訪れたことがあります。
テナメントは「貧しい長屋」というニュアンスです。
テナメント博物館の豊富なアーカイブ映像には、ウクライナ、ポーランドはじめ、東欧から来た移民の極貧の暮らしが、克明に記録されていました。
衛生状態が悪く、おそろしく狭い部屋に押し込められ、わずかな賃金で、朝から深夜まで酷使される。飢えてやせこけた子どもたちの姿に、ことばを失いました。
そのころウクライナでは……
とはいえ、ニューヨークの移民街の劣悪な生活環境も、スターリンの支配するウクライナにくらべれば、ケタ違いに「安全」であったかもしれません。
そのころ、スターリン支配下のウクライナでは、なにが起きていたのか。
1930年代、権力を掌握したスターリンは、農業の集団化を強行しました。ウクライナの農民は、土地や資産の没収に抵抗。しかし決死の反乱も、赤軍に踏みにじられました。
1932年、スターリンはウクライナの穀物の徴発を44%もひきあげました。
モスクワから派遣された徴発隊が農家を襲い、すべての食糧を奪い去ります。ウクライナは、人為的な大量餓死、すなわち「ホロドモール」の地獄におとされたのです。
飢えて精神を病み、人肉食に走る者さえいました。1932年から34年、ウクライナでは、350万人以上の人々がホロドモールで亡くなりました。 その後、廃墟となった無人の農村へ、ロシア人が大挙、移住してきます。
1937年から1938年には、ウクライナ文化が破壊され、芸術家や知識人が大量に処刑されました。秘密警察による拷問、冤罪、強制収容所、大量虐殺、ホロドモール、ロシア化の強制。
あらゆるわざわいに埋め尽くされた20世紀ウクライナ。
海外のディアスポラは、恐怖政治の実態を世界に訴えようと試みましたが、ソ連の巧妙な嘘と宣伝によって黙殺されました。
当時、欧米では、多くのメディアや知識人がソビエトのプロパガンダを信じ込み、結果的に、スターリンの暴虐に加担していたのです。
第3の波 ヒトラーとスターリンが生んだ大量の難民
第二次世界大戦は、史上空前というべき、大量の難民を生みました。
ウクライナをめぐる悲劇をふりかえりましょう。まず1939年、ヒトラーとスターリンは、秘密議定書を結んで、ポーランドを山分けしました。
これをみて英仏が宣戦布告、第二次世界大戦の火ぶたが切られます。
映画「キャロル・オブ・ザ・ベル」に描かれているように、ポーランド領だった西ウクライナは、ソビエトとナチス・ドイツに相次いで占領され、ソ連の秘密警察NKVDや、ナチスの親衛隊SSによる、狂気の暴虐にさらされます。
1941年、独ソ戦が始まると、ウクライナは戦場になり、500万人が犠牲になりました。
ヒトラーもスターリンも肥沃なウクライナを手に入れようとし、主戦場になったウクライナでは1000万人が家を失ったのです。ソ連軍の4割はウクライナから動員されました。
また大戦末期には、ナチスに「劣等人種」あつかいされた400万のウクライナ人が、「オスト・アルバイター(東方労働者)」としてドイツの軍需工場に強制連行され、家畜のように酷使されました。
飢えに苦しむウクライナの女性は、じゃがいもを盗んだだけで、公開処刑されました。空襲があっても、防空壕に入ることは許されませんでした。ナチスの人体実験の材料にされ、多くのウクライナ人が絶望の中で死んでいきました。
ウクライナの人々が、どれほどの苦しみ、悲しみ、痛みを強いられたか、想像を絶します。
ソビエトへ強制送還されれば、どうなるか
悲劇はなおも続きます。第二次世界大戦の終了とともに、またしても大規模なディアスポラが発生。大量の難民が行き場を失いました。
ドイツの難民キャンプに移されたウクライナ人は、連合軍に懇願し、必死で西側への亡命を求めました。ウクライナ人が何より怖れていたのは、ソ連に強制送還されることでした。
というのも、ソ連は、ナチスの捕虜になった兵士や、ナチスの軍需工場で働いたウクライナ人を「裏切り者」「スパイ」とみなしたからです。事実、ソ連に送還されれば、理不尽な運命が待っていました。
1953年までに、550万がソ連へ送り返され、5人にひとりが銃殺、もしくはグラーグ(強制収容所)送りとなりました。さらに多くがシベリアに強制移住させられました。
捕虜であろうが強制労働者であろうが、戦時中、西側にいたものは、のきなみスターリンに報復されるのです。まことに理不尽におもえますが、それがソ連のやりかたなのです。
連合国の配慮で、8万人がアメリカへ、3万人がカナダへ移ることになりましたが、審査は厳格で、すべての希望者が受け入れられたわけではありません。アメリカへの移住がみとめられず絶望のあまり命を断ったひともいます。
たとえ西側に移住することができても、ゼロからやりなおすことは過酷です。しかも多くの移民は、戦争や強制労働の経験者で、深刻なトラウマを抱えていました。
ニューヨークのリトル・ウクライナにたどりついた難民はこう証言しています。
「往来でサイレンが鳴るたびに恐怖がよみがえり、母はおびえました」
悲しいことに、おなじトラウマはいまも多くのウクライナ人を苦しめています。
第4の波 ソ連崩壊後のディアスポラ
ウクライナ人は、1921年以来、70年間も主権国家を持つことができませんでした。
しかしソ連崩壊後、1991年、ついに悲願の独立を果たします。
ちなみに国民投票では、92%が独立を支持しました。ウクライナ人ばかりでなく、ロシア人、ユダヤ人、タタール人、アルメニア人などの少数民族をふくめ、圧倒的多数が独立を支持したのです。
しかし、独立は、第4波の巨大なディアスポラを生み出すきっかけでもありました。独立後のウクライナから、出稼ぎや移民で、実に25万人が海外へ出国したのです。
なぜ人々は海外へ渡ったのか。
最大の動機は、経済の崩壊です。ウクライナだけではありませんが、それまでソ連の社会主義経済に組み込まれていた国々はどこも、停滞した経済を改革することができませんでした。
30年前、わたしは取材でウクライナの隣国ルーマニアを訪れました。
ソ連崩壊後、東欧諸国では、自由、民主化、経済改革が力強く叫ばれたものの、内実は混乱の連続で、ほんとうにソ連時代の負の遺産を克服できるのか、疑問をぬぐえませんでした。
事実、旧ソ連圏では共産党の「元幹部」など、かつての特権階級が一晩で民主派に「変身」して権力中枢に居座り、裏では国家の財産を私物化してオリガルヒになりました。
市民は日々のパンに事欠き、パニックになっていました。それなのにソ連の体質からぬけ出せない官僚は汚職にまみれるばかり。
抗議が大きくなると「言論統制」で弾圧します。ソ連時代と変わりません。
せっかく「モスクワのくびき」から解放されたのに……市民の絶望は、どれほど深かったことでしょう。
ウクライナの人々は、出稼ぎまたは移民に活路を求めました。
出稼ぎの場合、女性はベビーシッター、介護、家事手伝い。
男性は工場や建設現場の労働者として働きました。
行き先は西欧、南欧、隣国ポーランド、イスラエル、ロシアなどです。
外国の悪徳業者にだまされ、密輸やヤミ商売に手を染める人もいました。
衝撃的なドキュメンタリー映画「売却される女達」(2004年/イスラエル)では、海外の売春宿に監禁されたウクライナ女性の悲劇がえがかれています。
ディアスポラは何に怒ったのか
アメリカへ流入した経済難民は、経済成長の著しいサンベルト地帯(カリフォルニア、フロリダ、アリゾナ、テキサス)に職を求めました。ともかく、少しでも条件の良い仕事について金を稼ぎ、生活を立て直すために、懸命に働かなくてはなりません。古い移民のコミュニティとなじむ余裕はありませんでした。
しかし、ウクライナで、政権の腐敗への怒りを爆発させたオレンジ革命(2004年)やマイダン革命(2014年)がおきると、新旧のディアスポラは、若者を中心に共闘し、欧米の各都市でデモをやり、夜を徹して革命を支援しました。
海外のディアスポラが母国の市民とともに怒り、ウンザリし、拒絶したのは、ソ連の体質の抜けない権力者たち、その腐敗、その汚職、その抑圧……ひとことでいうなら「ソ連の亡霊」にほかなりません。
ウクライナ史家のオリガ・ホメンコさんのことばです。
「ふるいソ連時代の現実に連れ戻されたくないウクライナ人。そしてこの30年でまったくソ連の現実を知らない世代も成長してきた」
「どんなに外からのプロパガンダが流れてきても独立前の不自由と独立後の自由の違いもよくわかっている。移動の自由、好きな外国語を勉強できる自由。独裁政権の下から出られて思う存分にあじわえた自由。その自由を知った人々は、『人を貧乏にし、1チャンネルのテレビだけで“正しい”ニュースを流し、人々をコントロールする時代遅れの独裁政権』には戻れない」
(オリガ・ホメンコ著「キーウの遠い空 戦争の中のウクライナ人」中央公論新社より)
100年の歴史をもつ新旧のディアスポラが、さまざまな歴史経験の違いを超えて強く願うこと、それは、「二度とソ連のような国に逆戻りしてはならない」という一点です。
第5の波 膨大なウクライナ避難民の運命は……
2022年2月にロシアがウクライナに軍事進攻して以来、海外に避難したウクライナの難民はおよそ600万人。一時的なものなのか、それともウクライナ・ディアスポラの波というべきなのか、まだわかりません。
現在、18歳から60歳の健康な男性の出国は厳しく制限されているため、避難民の圧倒的多数は女性と子供、そして高齢者です。家族は分断され、遠く離れて暮らしています。
ウクライナ難民の大半は、切実に、早期の帰国をのぞんでいます。
しかし、ロシアがウクライナ侵略をはじめて、まもなく3年目に入ろうとしています。戦争がさらに長引くなら、避難民は移民先で生きていくことを強いられるかもしれません。
100年前の、最初の移民がそうでした。出稼ぎのつもりで海外へ出て、第一次大戦、革命、独立戦争が何年も続き、結局、帰ることが出来なくなりました。
たとえ戦火が止んだとしても、マリウポリはじめ壊滅した都市の出身者は、すぐには帰れません。インフラの復旧、地雷の除去、何年かかるかわかりません。
「もし欧米が支援を強化しなければ、さらに膨大な難民とNATO諸国への戦争拡大という、最悪のシナリオが起こりうる」
ドイツの新聞「ヴェルト」は、2月10日付の記事で、専門家の見解を伝えています。
世界60か国に離散したディアスポアラは、プーチンがウクライナに侵攻して以来、物資を送り、寄付を募り、コンサートを開き、懸命に支援を続けています。
教会や公民館で、多くのウクライナ人が集まり、祈りをささげます。移民2世、3世、4世もいれば、半年前に避難してきた親子もいる。
ニューヨークのリトル・ウクライナで、聖ジョージ教会の牧師は、こう呟きました。
「私たちの仕事は、希望を説くことです。今を生きる人のために。子どもたちのために」
(第3回「真実をとりもどす!」へ続く)
写真協力:公益財団法人 日本ユニセフ協会
ユニセフは、ウクライナと周辺国の国境付近に子どもたちと家族への支援拠点を設置するなど、ウクライナ国内外で人道支援を届けています。
京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。