シリーズ「亡命指揮者・果てなき旅路」前回までのあらすじ
日本ポップスの生みの親・服部良一。そして世界のマエストロ・朝比奈隆。
ふたりの才能を見出し、育てたのは、ウクライナ人指揮者メッテルでした。
このコラムでは日本音楽界の恩人メッテルと弟子たちの数奇な運命を追います。

ロシア革命と内乱からのがれ、ユーラシア大陸を横断、「東洋のパリ」とよばれた音楽都市ハルビンにたどりついた巨匠メッテルは、ハルビン交響楽団を東洋一のオーケストラに育てあげました。 

しかしハルビンにもソ連の支配が浸透し始め、メッテルはふたたび亡命を決意します。行く先は、神戸。1926年のことでした。


第2回「神戸の奇跡」
■ハルビンから神戸へ

ハルビンから欧州は遠い。しかし日本は近い。まず日本へ行けば、そこを中継地点として、アメリカへ亡命する道が開けるかもしれない。
そうした思惑もあって、海を渡って、神戸や横浜、東京に腰を落ち着ける人々が増え、数千人が日本海を渡りました。

1923年。関東大震災がおきると、東京や横浜をあきらめ、神戸に移住する亡命者が激増します。結果として神戸は日本における「亡命者の首都」になりました。

戦前の神戸港は、ブラジルへの移民の出発港であり、亡命者のたどりつく港でもあった。

その結果、「白系ロシア人」とよばれる亡命者が殺到。イギリス人やアメリカ人を追い越し、当時の日本に居留する、最大の外国人集団になりました。

ちなみに「白系ロシア人」とは、どのような人たちでしょうか。一般には、第一次大戦の前後、ロシア革命の恐怖から逃れ、世界に離散した亡命者を指します。

そのなかには、帝政ロシアの支配をうけていたさまざまな民族がふくまれます。
ロシア人ばかりでなく、ウクライナ人もいれば、ポーランド人、リトアニア人、チェコ人、ルーマニア人、セルビア人、ユダヤ人、タタール人などがいます。

しかし、亡命者を登録した日本の内務省は、厳密な区別をせず、帝政ロシアのパスポートをもつ亡命者を十把ひとからげに「白系ロシア人」に分類しました。それゆえウクライナからの多くの亡命者の存在が、見えなくなってしまいました。


■服部良一の才能を見抜く

ハルビンの音楽人は、日本への関心を深めていました。西洋音楽の受容にきわめて熱心である日本が、有力な亡命先として、浮上していたのです。

メッテルがハルビンに別れを告げ、神戸港にたどりついたのは、1926年3月。
48歳になっていました。BK(いまのNHK大阪放送局)が創設した「大阪放送管弦楽団」の指揮者として招かれたのが、日本へ渡るきっかけになりました。

ちょうどメッテルの来日した年、19歳の服部良一は、大阪放送管弦楽団に入団しました。夜はジャズバンド、昼間はオーケストラの一員としてサクソフォンとフルートを担当していました。メッテルと服部の奇跡的な出会いは、このときです。

若き日の服部良一 吹奏楽団でサクソフォンを学び、ジャズに魅せられて音楽の道へ
(提供:服部音楽出版)

メッテルは、オーケストラを指導するうち、服部の非凡な才能、なみはずれた意欲を見抜きます。服部自身はそのときの出会いをこう回想しています。

「当時の僕は、オーケストラでの練習のさい、ただ自分のパートをこなすだけでなく、 譜面台の横にミニ・スコアを置いて、オーケストラの総譜の進行に注意を払うようにしていた。それがメッテル先生の目にとまったのだろう。『あの若者は熱心だ。勉強すればきっとよくなる。もっと勉強させなさい』とマネージャーに言った」(服部良一「私の履歴書」より)

メッテルは服部に、「アナタ勉強シマスカ』と声をかけます。
おどろいたことに、巨匠メッテル直々に、音楽の個人教授をしようというのです。

願ってもない幸運。服部は、週に一回、神戸のメッテル邸に通うことになります。ところが、レッスンの初日から、メッテルの不興を買ってしまいました。

「あいさつ代わりのつもりで灘萬のカステラを買って恐る恐る差し出すと、
『コレナンデスカ。ワタシ、アナタニ、レッスンアゲマス。オミヤゲイラナイ。モット、ジョウズニナッテカラ、モッテキナサイ』」
(服部良一「私の履歴書」より)

メッテルは初日から、いきなり和声学のレッスンを始めました。 
ちなみにメッテルは耳が良く、日本語をおぼえるのが早かった。カタコトとはいえ楽団員とのコミュニケーションには困りませんでした。

教科書は、リムスキー・コルサコフの「和声学実習」でした。コルサコフは偉大な作曲家で、メッテルの師匠でした。ちなみにレナード・バーンスタインはコルサコフを「オーケストレーションの神様」といい、その教科書を、「オーケストレーションに関する最も有名な本」と評価しています。

しかし服部にとって、メッテルの厳しさは、想像をはるかに超えていました。 

「3時間ほどのレッスンは緊張の連続で、トイレに行く暇もない」
「おまけに一週間分の宿題が、山のようにある」

服部は本来ジャズマンであり、夜はダンスホールで演奏しなくてはなりません。メッテルから課せられた宿題にとりくむ時間をつくれないときもありました。

服部は、あるとき宿題をさぼって、「先生、頭が痛いので練習問題ができませんでした」と弁解しました。するとメッテルは服部の仮病を見抜き、『ハットリサン、ソレハタイヘンデス。スグ大学病院ヘイキナサイ』と真顔で迫ります。

服部は観念しました。この偉大な師匠には死ぬ気で食らいつくしかない。

それから4年間にわたり、服部はメッテルから、和声、対位法、管弦楽法など音楽の基礎理論をはじめ、実践的な作曲の技法を厳しく仕込まれました。

メッテルの薫陶を受けて、服部の音楽語法は、めざましく豊かなものになりました。服部にとってまさしく「神戸の奇跡」であったといえます。


亡命音楽家の根城・深江文化村 

神戸の深江から芦屋にいたる一帯は、戦前、阪神間モダニズムの拠点でもあり、その華やかさは、芦屋に移住した谷崎潤一郎の文学作品「細雪」にあざやかに描かれています。

神戸市東灘区深江文化村(1961年)© 神戸深江生活文化史料館

いまは忘れられていますが、深江にはかつて、13の洋館がならび、英国庭園をおもわせる広い緑の中庭を囲んでいました。戦前、ここに暮らしていたのは、ロシア革命の混乱をのがれて神戸に亡命してきた人々です。

メッテルは、亡命ウクラニアンの拠点でもあった深江を気に入り、あたらしく家を建て、腰を落ち着けました。
メッテル邸には、バレエのスタジオもありました。妻オソフスカヤは、もとプリ・マドンナ。宝塚歌劇団に、本物の劇場文化を根付かせようとつとめました。

メッテルは、大阪のオーケストラを指導するだけでなく、京都帝国大学のオーケストラの指揮者を10年以上つとめました。東京にも招かれ、新交響楽団(のちの「NHK交響楽団」)の指揮にあたりました。

メッテルのなみはずれた指揮ぶりは、日本の若い音楽青年たちを圧倒。
メッテルのもとには、教えを乞う若者たちが足しげくやってきます。        
のちに世界的なマエストロとなる朝比奈隆もそのひとりでした。

若き日の朝比奈隆(1951頃)メッテルの愛弟子

朝比奈は青年時代、東京でメッテルの実演(新響=のちのN響)に接して、はげしく心をゆすぶられ、メッテルの指導をあおぐため、京大法学部に進学。京大交響楽団に入団しました。
朝比奈はメッテルの門下生でしたがアカデミックな音楽教育は受けていません。
卒業後、いったんサラリーマン生活を送り、退社して音楽家をめざしたという、ユニークな経歴の持ち主です。
朝比奈は人生の岐路に立った時、メッテルの指示をあおぎました。メッテルは、流ちょうな日本語で、朝比奈に説教しました。

「朝比奈君、君の国に“石の上にも三年”ということわざがあるだろう。三年間はわたしのいう通り勉強しなさい。三年たってものにならなかったら私が断を下すから。そのときもういちどサラリーマンに戻っても食っていける」

朝比奈はふりかえります。「若き日のわたしは、いわばメッテルを教祖とするメッテル教団の幹部であった」と。
後年、朝比奈は音楽人として、メッテルの影響力から脱け出すのに懸命だったとものべていますが、それほどメッテルからの影響は大きかったのです。


■メッテルの思いは…

服部良一がずっと飾っていたというメッテルの写真(提供:服部音楽出版)

亡命音楽家の来日は、日本の音楽界にとっては、おもいがけない福音となりました。メッテルはじめ、レオ・シロタ、モギレフスキーなどウクライナ出身の亡命音楽家の指導によって、日本における西洋音楽の受容と創造は、急速にすすんでいきます。かれらは、「日本の音楽界の恩人」として記憶されるべきです。

しかし、ハルビンの音楽界に君臨したメッテルにとって、日本への亡命は、苦渋の選択であったかもしれません。
当時の日本は、クラシック音楽に関しては発展途上にあり、オーケストラも未熟でした。亡命音楽家メッテルは日々、どのような思いで音楽活動にいそしんでいたのでしょうか。

あれこれ資料を漁っているうち、メッテルが心情を吐露している珍しい記事にいきあたりました。海外の音楽雑誌の求めに応じたインタビュー記事です。

メッテルはこう語っています。

「(亡命先に日本を選んだ時)仲間からは、『日本は西洋音楽不毛の地だ。お前が仕事をできるような環境ではない。』そう忠告されました。私自身、きっとすぐ日本を離れるのだろうと思っていました」

当時ハルビンでは、日本を中継点として、アメリカやオーストラリアへ向かう亡命者が多かった。メッテル自身も、ソ連の支配から逃れる一時しのぎのつもりで来日したのです。音楽活動の面で、日本に期待していたわけではない。

ところが、日本で多くの音楽家と交流し、若者たちを指導するうちに、メッテルはおもいがけない喜びをおぼえるようになります。

「これほど気持ちよく音楽がやれた経験ははじめてです。たしかに、演奏の水準は低いけれども、ヨーロッパの音楽家のような思い上がりはありません」
「日本人が音楽に取り組む姿勢は敬虔です。お金儲けなど頭にありません」
「ただただ、純粋に芸術を愛しているのです」 


■メッテルの伝道者・服部良一

(提供:服部音楽出版)

メッテルは、音楽を志す日本の若者たちを、厳しくも献身的に指導しました。
そして、弟子たちも、「メッテル先生」から受けた恩に感謝するばかりでなく、自分たちが学んだ教えを後進に伝える努力を怠りませんでした。

たとえば、服部良一は、27歳で東京に進出してから、「メッテル塾の東京支部」ともいうべき「響友会」を作り、無償で深夜のレッスンをはじめています。

「僕のレッスンを受けたいという希望者が次第に増えてきたので、新富町にアパートを借りてピアノを置き、ホールの仕事の済んだ後、夜の12時ころから3時ころまでレッスンをした」
「レッスンに通ってきた人は、30人くらいはいただろう」
「毎月一回作曲の課題を出したり、ソナタや弦楽四重奏曲を書かせたり、交互に編曲をしたりしながら『響友会』と称して一緒に勉強した」

「響友会」には、ジャズマンや作曲家など、東京中から音楽人が集まりました。
そこで服部は、伝道師のごとく、メッテルから学んだ音楽理論を広めたのです。

「ハットリサン、自分ガ学ンダコトハ人ニ教エルヨウニシナサイ。ソウスレバ自分モ学ベルノデス」メッテルの貴重な助言でした。

服部自身、アカデミックな音楽学校で学んだ経験はありません。ときには、「学生」たちの質問に立ち往生することもありました。
そんなとき、服部は列車に飛び乗り、芦屋のメッテル邸を「襲撃」しました。

メッテルも、服部のアポなし訪問を喜んだといいます。

「ハットリサン、ワカラナイトキハ、スグイラッシャイ」

服部は、東京へ行ってもメッテルの愛弟子として、教えを受け続けたのです。

メッテルの弟子・服部による「東京音楽学校」は何と5年も続き、服部を通じてメッテルの孫弟子となった若い才能が、やがて日本のジャズ界、ポップス界を革新していくことになります。


■服部の快進撃

1920年代から30年代にかけ、欧米と歩調をそろえて日本でも華々しいジャズエイジが開幕しました。服部はコロンビアの専属となり、流行歌の世界を洗練されたアレンジのジャズソングで染めあげます。
さらに1937年、服部良一は、淡谷のり子を起用して、「別れのブルース」を大ヒットさせます。これをきっかけに、服部は驚異の快進撃をはじめます。

「雨のブルース」「蘇州夜曲」「チャイナ・タンゴ」「一杯の珈琲」「湖畔の宿」「山寺の和尚さん」「いとしあの星」「ラッパと娘」…

いずれも時代を画するヒット曲、傑作ばかりといっていいでしょう。
服部の曲想とアレンジは、いま聴いても斬新です。神戸で修業したメッテルの弟子は、いまや大衆歌謡の世界に、一大イノヴェーションをおこしたのです。


■服部とメッテルの「受難」

服部にとって、『別れのブルース』で一世を風靡した1937年は、大作曲家への船出を告げる年でした。
しかし、この年、日中戦争が勃発、世の中は急速に戦時色に染まっていきます。
不穏な世相の中、カフェやダンスホールに対する締め付けが厳しくなり、ジャズと流行歌の蜜月は終わりを告げます。
軍部がレコード会社に圧力をかけ、戦意高揚に役立つ戦時歌謡が大量生産されるようになると、服部の出番は少なくなります。

一方、服部の師匠であるメッテルは、もっと早くから、日本社会の急激な変化を肌で感じていました。
メッテル来日から5年後の1931年、満州事変が勃発。関東軍の暴走が始まりました。自作自演の謀略。国際法の蹂躙、国際的孤立。今のロシアに似ています。

翌1932年には、日本の傀儡国家「満州国」がつくられ、3年後ハルビンも満州国の支配下におかれます。
ハルビンからの亡命者は、日本でなく上海に流れるようになります。

1936年、日本はナチスと手を組み、日独防共協定をむすびます。
巷では、ロシア人を敵視する空気があらわになり、ウクライナ人にも敵意が向けられました。
ウクライナ人はロシア人ではなく、ソビエトの暴力をおそれて逃れてきた人々です。しかし日本では、すけ(ロシア人に対する蔑称)」よばわりされ、卑劣なヘイトの対象にされたのです。

特高警察にはスパイとみなされ、監視され、通報され、逮捕監禁されたウクライナ人もいたといいます。東京でも関西でも、毎日のように警察から訊問され、迫害は時とともに耐えがたいほどひどくなっていきました。

1937年には、日中戦争がはじまり、泥沼化します。大陸では、「徴発」という名の略奪が公然と行われ、民間人にたいする虐殺もおこなわれました。
帝国日本の劣化と迷走は、時とともに加速していきます。

亡命者の楽園におもわれた「深江文化村」にも、暗い影がさしていました。
軍国主義の台頭によって、外国人への排外思想が広まり、音楽人のなかにも、そうした空気に感化されるものが出てきました。

1938年には、メッテルの厳しい指導に反発し、「日本男児への侮辱だ」と大騒ぎする楽団員さえ現れました。服部良一の証言では、「日本音楽界の恩人」であったにもかかわらず、メッテルは当局に「不良外人」の烙印を押されたといいます。

音楽への純粋な熱意で強くむすばれたメッテルと日本の音楽家の絆にも、いまや、ほころびが隠せないようになったのです。


■「楽園」の終わり

もちろん、日本の行く末をいくら悲観していようとも、スターリン支配下のウクライナに帰る選択肢などありえません。
スターリンは1933年に、ウクライナ人を搾取し、何百万もの農民を餓死させました(ホロドモール)。そして、1930年代を通じて、ウクライナ人を片端から強制収容所へ送り、ウクライナの知識人や芸術家を大量に殺戮しました。
スターリンの支配するウクライナは、まぎれもなく、この世の地獄でした。

飢餓により街頭に倒れ込んでいる農民(1933年)

故郷には帰れない。しかし、このまま日本にとどまることは、あやうい。
では、どのような選択肢が残されているというのか。

メッテルは、おそらく1938年のどこかで、さらなる亡命の覚悟をかためたとおもわれます。メッテルにとって、人生三度目の亡命です。

(第三回「弟子たちは世界を翔ける」につづく)

⦿Feel the World 戦前ジャズソングの最高傑作「ラッパと娘」

服部はメッテルに学んだ高度な音楽技法を応用して、数多くの優れたジャズソングを世に送り出しました。戦前の傑作をひとつあげるなら、やはり笠置シヅ子と組んだ「ラッパと娘」でしょう。
朝ドラでも趣里さんが素晴らしいパフォーマンスを見せてくれましたが、ここではオリジナルの音源「コロムビア音得盤シリーズ 笠置シヅ子」をご紹介します。

半世紀ほど前に、はじめてこの音源を聴いたときの衝撃を忘れません。
驚いたのは、これが1939年の録音であったことです。当時(昭和40年代)、私が耳にしていた日本の流行歌とはくらべものにならない斬新かつ手の込んだアレンジ、なみはずれたスイング感、トランペットとのコール&レスポンスのみごとさ、独創的でワクワクさせる笠置の歌唱力、すべてに圧倒されました。

天才歌手と天才作曲家による空前の傑作と言うほかありません。
服部の戦前のジャズソングは、いまも若いミュージシャンに強烈な光を送っています。これを聴けばさもありなんと思われます。
ぜひ服部の傑作をあつめた音源を若い人におすすめしたいとおもいます。

京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。