携帯端末に目まぐるしく流れ来るニュースの数々。刻一刻と移り変わる世界情勢。世界とは何か。歴史とは何か——。時代を読み解き、今このときを生きる審美眼を養う特別コラム第9回。
執筆するのは、NHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」をはじめ、多くの名作ドキュメンタリーを手がけてきた映像ディレクター・著作家の貴志謙介氏。全30回(予定)にわたり、ウクライナを軸に世界情勢とその背景にある歴史をひもといてゆく。

Prologue 神童と魔女

その少年の名はレオ。「神童」とよばれていた。
8歳でピアニストとしてコンサートを開き、大評判になった。

ある日、街角で、おばあさんに呼びとめられる。「魔女」と呼ばれていた。
人の悩み事を言い当て、吉凶を占う。
「レオ、ボルシチをお食べ。未来を見せてあげよう」

おばあさんのうす暗い部屋へ入ると、美味しそうなボルシチの香り、
窓からは、古い城、銀色の川、ゆきかう商船がみえた。
タロット・カードを渡された。
ピサンカ(ウクライナのイースター・エッグ)みたいな模様。

「魔女」のおばあさんはレオの顔をじっとみつめる。
「めくってごらんレオ、最初のカードを」

突然、光があふれ、音楽が聴こえた。レオは、華やかな都会の街角にいた。
着飾った貴婦人、黄金の馬車、宮殿のようなオペラ劇場。
「ここはどこなの、おばあさん」
「ウィーンさ・・600年もつづく大帝国の都・・おまえはここで妻をめとり、
有名なピアニストになるのさ。」レオの胸は高鳴った。

「・・・でもねレオ。この街は、おまえにとっては、『安息の地』ではない。
おまえは、はるかな遠い国へ、旅をする運命なのだ・・・」

レオは未来を知りたくて、もう一枚のカードをめくった。
「レオ! 見てはいけない」。そこには・・・


亡命者は、いわば大海に放り込まれた小舟。嵐に遭遇するたび、のぞまぬ流転をくりかえす。だれもが、おのれの才覚だけをたよりに生きていくほかないのです。

今回から3回にわたり、ウクライナに生まれ、日本人と深い縁をむすんだピアニスト、レオ・シロタの人生をたどります。
日本で多くの弟子を育て、楽壇に尽くした世界的ピアニスト。彼は、生涯、旅することから逃れられない、亡命者でした。
なぜ亡命を繰り返したのか。日本に「安息の地」を求めたのはなぜか。そして、そして、その願いはなぜ裏切られたのか。
かれの数奇な人生は、鏡のように20世紀という怪物の姿を映し出します。

レオ・シロタ©学校法人甲南学園「貴志康一記念室」

レオ・シロタは、1885年、ウクライナ南西部の街、カーミャネチ・ポジリスキーで生まれました。両親は織物をあつかうユダヤ系ウクライナ人で、豊かな暮らしをしていたといいます。5人の子どもたちは、みな芸術の分野にすすみました。

レオの生まれ故郷カーミャネチ・ポジリスキーは、どんな街だったのでしょうか。そのころウクライナは帝政ロシアの支配をうけていましたが、街は古くから東西の要衝として栄え、ポーランド人、ユダヤ人、ドイツ人、アルメニア人、ウクライナ人はじめ、多くの民族が共存していました。

レオの生まれ故郷カーミャネチ・ポジリスキー(By Grzegorz Gołębiowski - Own work, CC BY-SA 4.0,)

当時(19世紀末)のウクライナではめずらしいことではありませんが、ユダヤ系の住民は街の人口の4割をしめていました。5割を超える街も多かった。
ユダヤ人は中世以来、ウクライナに根をおろし、都市の近代化や経済の発展に欠かせない役割りを果たしてきたのです。

20世紀初頭には、独立を志す勢力の拠点で、「ウクライナ国民共和国」の首都でもありました。共和国の政権には50名のユダヤ人がふくまれ、軍隊にもユダヤ人が参加していました。しかし結局、ウクライナ国民共和国はボリシェビキに侵略され、独立を奪われ、長くソビエトの支配を受けました。

カーミャネチ・ポジリスキーは、第二次世界大戦では、ナチスとの、血で血をあらう戦場になりました。1941年8月には、ナチスによって、ユダヤ系のポーランド人やウクライナ人23,600人が虐殺されました。まさにウクライナの悲劇的な運命を象徴するような街といっていいでしょう。


ポグロムの恐怖 

レオ・シロタの少年時代は、1881年から1905年にわたって帝政ロシアでふきあれたポグロムの多発期と重なります。ポグロムとは、ユダヤ人に対する集団的迫害のこと。略奪、強姦、殺戮さつりく、ありとあらゆる破壊行為を意味します。

帝政ロシアの末期。おぞましい圧政の下でどん底の暮らしを強いられた労働者や農民の怒りが噴きだし、革命を叫ぶ者もあらわれました。
貴族や皇帝は大衆の怒りにおびえ、暴力の矛先がユダヤ系の住民に向かうようポグロムをあおりました。

アメリカに亡命したユダヤ系ウクライナ人の名チェリスト、グレゴール・ピアティゴルスキーは、幼いころ、暴徒の襲撃が終わるまで自宅の地下室に隠れていたことがあります。

「暗闇のなかで息を殺していた。頭上で、足音が聞こえた・・・
人間とはおもえない恐ろしい声がわたしの耳をはげしく打った。              『ユダヤの豚野郎! 出てこい!』」
・・・暴徒が去ってからピアティゴルスキーは、地上に出ました。人が吊るされ、妊婦の腹が割かれていました。(自伝「チェロとわたし」より)

当時のロシアはアンチ・セミティズム(反ユダヤ主義)を政府の公式政策として掲げるヨーロッパでただひとつの国でした。政府や警察は、率先してポグロムを準備し、ユダヤ人をおとしめる偽情報をばらまいて貧しい大衆の憎悪をかきたてたのです。ちなみに、ソビエトやロシアの秘密警察は、帝政ロシアの破壊工作から多くを継承しています。
 
少年時代、ウクライナにまん延していたユダヤ人への差別と迫害、その根深さは、少年時代のレオの心に深い恐怖を残したでしょう。

しかしレオは、たぐいまれな才能の持ち主でした。彼は音楽の力を信じて、ロシアの闇を追い払い、光あふれる世界をもとめようとしました。

彼の才能はめざましいもので、8歳で最初のコンサート、9歳でキーウの官立音楽学校へ入学、14歳でキーウ歌劇場のピアノ伴奏者に抜擢され、世界最高の歌手フョードル・シャリアピンの伴奏をしたといいます。
 
レオの兄や姉は、すでにロシアから脱け出し、パリやワルシャワで暮らしていました。長姉はオペラ歌手、次姉は女優、兄は指揮者。まぎれもない音楽一家です。

ユダヤ系ウクライナ人にとって、音楽の才能で身をたてることは、自由と解放への道につながる、数少ない選択肢でした。レオの兄や姉はみな死に物狂いで修練を積み、人間らしい暮らしをもとめて、ほかの国へ旅立っていきました。

ウィーンのシンボル、シェーンブルン宮殿(世界遺産)。レオ・シロタはこの街で名声を得た。

レオがめざしたのは、ウィーンでした。
1904年のことです。ウィーンは、芸術の都、ハプスブルク帝国の首都、ヨーロッパ文化の中心でした。レオは運よく、ウィーン音楽院でフェルッチョ・ブゾーニの弟子になることができました。

ブゾーニはフランツ・リストの再来とよばれた、ヨーロッパ最高のピアニスト。巨匠に愛されたレオは24歳の時、本格的な演奏活動をはじめます。
イーゴリ・ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの三楽章」を完璧に弾きこなしたレオは、ウィーンの喝采を浴びました。

新進ピアニスト、レオ・シロタが名声を確立したころ、ヨーロッパ全土にすさまじい砲声の音がとどろきました。1914年、第一次世界大戦が勃発、ヨーロッパは4年間、地獄の炎につつまれることになります。
おそらく、この前後に、レオはオーストリア国籍を取得したと思われます。

もし、帝政ロシアにとどまっていれば、徴兵され、東部戦線のざんごうで朽ち果てていたでしょう。

大戦のさなか、ウクライナからの亡命者にとって、いや全世界にとって、驚天動地のニュースが舞い込みました。
1917年、ロシアに革命がおこり、ロマノフ王朝は滅亡、ウラジーミル・レーニンが率いるボリシェビキ(共産党)が権力を握ったのです。

ウクライナからの亡命者は、永久に故郷を失いました。


落日のウィーン

1918年、ドイツは第一次大戦に敗北しました。ドイツの同盟国であったハプスブルク帝国も敗者となり、中世以来、650年におよぶ歴史に幕を閉じました。

2年後、レオは大恋愛の末、ウクライナ出身のアウグスティーネと結婚。
人気ピアニストの新婚家庭には、ウィーンの著名人がぞくぞくとやってきます。
アルマ・マーラー、リヒヤルト・シュトラウス、ステファン・ツヴァイク。シグムント・フロイト。
才能と名声。愛情深い妻。しあわせな人生に見えます。
芸術の都ウィーンは、レオにとっての「安息の地」だったのでしょうか。

残念ながら、そうは思えません。敗戦後のウィーンは、亡命者の不安をかきたてる、寒気のするような現実に満ちていました。
 
黙示録のような光景がひろがっていました。
石炭もなければガスもない。ベンチや樹木は薪にされてしまいました。
燃料が欠乏しているため、列車をうごかすこともできません。戦前、ウィーンの台所を支えていたハンガリーからの農作物は、完全に途絶えました。

わずかな食糧の配給をもとめて、飢えたひとびとが震えながら、一晩中立ち尽くしていました。しかし食糧は目に見えて減り、餓死者が増えていきます。

そこへ、疫病が襲います。全世界で2500万人のいのちを奪った悪性のインフルエンザ、「スペイン風邪」です。犠牲者は大戦の死者数を超え、ウィーンでも猛威をふるいました。

優雅で洗練された芸術の都は、一夜にして、巨大なブラック・マーケットに変貌しました。
軍需物資の横流しでひと財産つくった悪党がいます。食糧を買い占めて、高値でさばく闇成金。コカインの密売でおおもうけするギャングもいます。
市民は田舎へ買い出しに行き、銀の食器をわずかな卵と交換します。すさまじいインフレのせいで、現金には信用がなかったのです。

ウィーンには、ポグロムから逃れたユダヤ人もいれば、ロシア革命から逃れてきた亡命者もいます。ロシアに占領されたガリツィア(西ウクライナ)から逃れてきた難民。失業者。復員兵。かれらは、社会の底辺に追いやられていました。
人心は荒廃し、テロや暴力が横行します。
見捨てられた人々のあいだに、マグマのような怒りが溜まっていました。

1923年、ドイツの街角にオーストリア出身の煽動家があらわれ、ユダヤ人へのヘイト・スピーチを絶叫、行き場のない聴衆の憎悪をあおりました。

「敗戦後のインフレは、ユダヤ人の謀略だ!」「ユダヤ人は徴兵をまぬがれ、ドイツの兵士を背中から撃った!」「ユダヤ人の市民権を剥奪せよ」

極右団体の首領は、ユダヤ人の追放ばかりか、ポーランド、チェコ、ウクライナなど、スラブ人の土地を奪ってドイツの植民地にすることを主張しました。
この男、すこし前は、ウィーンの貧しい画学生でした。
名は、アドルフ・ヒトラー。残念ながら、絵の才能は凡庸でした。
ウィーンにいたころ、美術学校に進学できず、メルデマン通りの男性宿舎に
たむろし、シェーンブルン宮殿の公園をあてもなくうろついていました。

おなじようにシェーンブルン宮殿の散策を好む人物がもうひとりいました。
グルジア出身の35歳、ヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリです。
大戦前夜、シェーンブルン宮殿通り30番地に隠れていました。

ジュガシヴィリは、レーニンの密命をおびたスパイでした。
かれは自分の名前が気に入らず、ウィーンで新しい名を名乗りました。
「ヨシフ・スターリン」。
この忌まわしい名はウィーンで誕生したのです。

第二次世界大戦の引き金を引いたスターリン。1913年、ウィーンに隠れ住んだ。おなじ時期、ヒトラーもウィーンで暮らしていた。

スターリンは、戦間期にウクライナの農民を搾取、何百万人もの人々を餓死させました。秘密警察に命じて罪もない者を収容所に送り、大量に殺りくしました。
ウクライナの人々は、いまもスターリンと秘密警察の暴虐を忘れていません。
1939年、スターリンはヒトラーと手をにぎり、ポーランドへ侵略。
第二次世界大戦を引き起こしたのは、このふたりでした。

2年後、スターリンとヒトラーは、ウクライナの穀倉地帯をめぐって激突、何千万という兵士や民間人が犠牲になりました。
二人の独裁者に踏みにじられたウクライナは、二重の炎に焼き尽くされたのです。

レオ・シロタも、音楽の勉強のあいまに、シェーンブルン宮殿を散策したことでしょう。
20世紀を地獄へ導いた大量殺戮者と、すれ違っていたかもしれません。

戦争とジェノサイドの世紀は、落日のウィーンですでに始まっていました。
(第10回へ続く)

【FEEL ! WORLD】

「ウクライナへの祈り」シルヴェストロフ

現代ウクライナを代表する作曲家ヴァレンティン・シルヴェストロフ(84歳)は、2022年2月、ロシアによるウクライナ侵攻がはじまってまもなく、ベルリンへ避難しました。彼自身は故郷キーウにとどまりたかったようですが、家族の強い願いを受け入れたのだといいます。

8年前の2014年、シルヴェストロフは、「ウクライナヘの祈り」という合唱曲を書きました。親ロシア政権に対する抗議で命を失ったキーウ市民を悼むためです。
シルヴェストロフはドイツのメディアによるインタビューに応じていますが、プーチンへの怒りが尋常ではないことが伝わってきます。これほど強いパッションをもつひとだからこそ、これほど静かに、深い悲しみを表現できるのかもしれません。
オーケストラ版もあり、ウクライナの犠牲者へのレクイエムとして、いま世界中で演奏されています。

ここでは、日本の東京都交響楽団、ドイツのバンベルク交響楽団、そしてポーランドのワルシャワ・フィルハーモニー合唱団による「ウクライナへの祈り」、三者三様の演奏を聴き比べたいとおもいます。


https://www.youtube.com/watch?v=-BJP-o7ogMo
Valentin Silvestrov: Prayer for Ukraine / シルヴェストロフ:ウクライナへの祈り / Kazushi ONO / 大野和士 / TMSO /東京都交響楽団

音楽監督・大野和士さんのコメントをご紹介します。このコメントで言及されているウクライナ出身の音楽家、これからの連載にも登場します。

東京都交響楽団 音楽監督  大野和士よりメッセージ
ウクライナ出身の有名音楽家といえば、作曲家ではプロコフィエフ、ヴァイオリニストではオイストラフ、ミルスタイン、エルマン、コーガン、アイザック・スターン、ピアニストでは、ホロヴィッツ、リヒテル、ギレリス、教育者としても有名なネイガウス、日本でもファンの多かったチェルカスキー、番外編として、ウクライナ出身の両親を持つレナード・バーンスタインと、枚挙にいとまがありません。ロシア出身の音楽学者で、ウクライナ出身のご夫君を持つロンドン・フィルのアーティスティック・ディレクター、 エレナ・ドュビネッツ氏は、業界誌に「これらの優秀な音楽家たちが、歴史上『ウクライナ人』とは認識されなかった」 ことを指摘、現代でもロシアの影に隠れ、受けるべき脚光を浴びなかったウクライナ人作曲家たちに言及しました。今回演奏する、シルヴェストロフ氏も1960-1970年代、エネルギーにあふれた前衛的な作品を発表し続けたお一人です。「ウクライナへの祈り」という、2014年の作曲時に、今日をすでに予想していたかのような作品―この曲をお聞き頂きながら、私たちの思いをウクライナに馳せたいと思います。 大野和士


https://www.youtube.com/watch?v=ZYUCv0vtbh4
Bamberg Symphony — Prayer for Ukraine (Valentin Silvestrov, *1937)
ドイツの名門オーケストラ、バンベルク交響楽団

バンベルクを訪ねたことがありますが、おどろきました。人口わずか7万の小さな街なのに、世界中から一流の音楽家があつまっています。楽団員の出身地は20か国で、ロシア人もいればウクライナ人もいるとのことです。


https://www.youtube.com/watch?v=t7IbtwRuM_Y
Silvestrov - "Prayer for the Ukraine" (Warsaw Philharmonic Choir, Andrzej Boreyko)
ワルシャワ・フィルハーモニー合唱団

ポーランドのすばらしい合唱団です。8月2日、侵攻以来のウクライナ難民は1000万人を超えました(UNHCR)。そのうち、500万人はポーランドがひきうけています。

京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。