2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とはまったく別の視点で、平安時代末期を描いたのが2012年大河ドラマ「平清盛」だ。その放送時に、NHKウイークリーステラにて人気を博した歴史コラム、「童門冬二のメディア瓦版」を特別に掲載!

以前にも、かつて政治家たちは選挙に出るためには〝3バン〟を必要とした、ということはお話ししました。
3バンとは3つの〝バン〟のことです。3つのバンとは①地バン(盤=基盤) ②看バン(板=名声)③カバン(鞄=カネ)をいいます。

伊豆に流された頼朝は、実をいえば②と③については流される前からもっていたのです。

②を用意しておいてくれたのは祖先の八幡太郎源義家です。義家は東北の争乱を鎮圧するために、東国の武士団をひきいましたが、朝廷からの給与が少ないので、自腹を切って補給しました。
そのためそれまで平将門を尊敬していた東国武士は、信奉するスターを義家に切りかえました。この風潮は頼朝流罪のころも、東国に色濃くのこっていたのです。

③についてはきのつぼねという大スポンサーがいました。彼女は、父母の名・生死の年月日・本名のいっさいが不明です。ただ比企(埼玉県比企郡)の武士、比企かもんのじょうの妻ということ以外記録がありません。

掃部允の主人は源義朝でした。義朝のじょうらくの際、比企局も夫とともに従いました。頼朝が生まれるとその乳母になり、平治の乱後はまた東国へと戻りました。そして頼朝が伊豆に流されてから二十余年、ずっと生活費を送りつづけたのです。

京都を出てから、頼朝のこまごました世話をしてきた藤九郎(安達盛長)も、比企局の娘婿だと伝えられています。局の婿にはほかにも河越重頼・伊東祐清(祐親の子)・平賀義信などがいた、との説もあります。
いわばこのころの〝東国の女性大ボス〟といっていいでしょう。そして、局の頼朝への愛情は絶対でした。

イラスト/太田冬美

東国武士のなかには平治の乱後の〝源氏の衰退〟を悲しみ、
「頼朝殿をいただいて、反平家の兵を挙げよう」
と叫ぶ連中もいましたが頼朝はノリません。

「そんなことをしても①(地盤)のない自分は、すぐ平家につぶされる」
と思っていたからです。
その ①をつくったのが、ぼくは政子だと思っています。父や家族を説いて、
「頼朝様挙兵の地盤をつくってあげてください」
と必死でした。政子の努力によって、頼朝の〝3バン〟は完全なものになったのです。

(NHKウイークリーステラ 2012年11月9日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。