2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とはまったく別の視点で、平安時代末期を描いたのが2012年大河ドラマ「平清盛」だ。その放送時に、NHKウイークリーステラにて人気を博した歴史コラム、「童門冬二のメディア瓦版」を特別に掲載!

鹿ししたにの陰謀事件は、たしかに清盛にとって危機でしたが、逆に考えればこの事件が清盛を危機から救ったともいえるのです。それほど当時の清盛は窮地に立っていました。立たせたのは西光と、その子の師高・師経の兄弟です。

師高は加賀守、師経はその目代(代官)をつとめていましたが、ふたりは現地のお寺と争い建物を焼いてしまいました。ところがこのお寺が比叡山延暦寺の末寺であったために、本山の僧兵が激怒し法皇に師高・師経の処罰を迫りました。ふたりの父は西光です。甘い処分で切りぬけようとしましたが、僧兵はいうことをききません。

当時清盛は延暦寺の天台座主、明雲とは仲がよく、法皇側からみれば好ましい状況ではありませんでした。

こまかい経過は略しますが、法皇側では、「平家と延暦寺のあいだにクサビをうちこもう」
と考え明雲を罷免し、伊豆に流罪という思いきった手段に出ました。

怒った僧兵は近江(滋賀県)で明雲を奪還します。
「院宣にそむく不届き者である」
と法皇側では僧兵の討伐を清盛の子重盛に命じます。

重盛は父のきもちを重んじ出兵を拒否します。これは法皇側の作戦どおりでした。
ニンマリわらった法皇側では、〝それでは〟と福原にいた清盛に、「おぬしが直接謀反人をついしてほしい」と要請しました。要請とはいえ命令です。清盛はことわれません。かれは完全に窮地に立たされてしまいました。

鹿ヶ谷で、酒宴をひらいて酒器のへいを倒し、
「瓶子(平氏)倒れたり」
と落語のダジャレのようなことをいって法皇・成親・西光らがハジャぐのも当然でした。

「ここから平家の没落がはじまる」
と思えたからです。

イラスト/太田冬美

ところが謀議に加わっていた多田行綱(摂津源氏)の妻の父が六波羅の役人でした。妻は夫に密告をすすめます。

行綱も、
「いまの反平家勢力では、とても平家は倒せない」
と状況判断し、清盛に訴えました。

清盛が最初に捕らえたのが西光です。西光はいいのがれなどせずに、逆に清盛を罵倒しました。清盛は西光をころします。清盛は間一髪で比叡山攻撃をせずにすみました。

そのため、
「鹿ヶ谷事件は清盛の陰謀だ」
という説さえあります。

つまり清盛は事前にこの集会のことをしっていて、しらん顔をしていた、というのです。あるいは?

(NHKウイークリーステラ 2012年11月2日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。