むかしの清盛と重盛父子の描きかたは、かなり横暴な清盛に対し、重盛は冷静で誠実。とくにそのときの社会体制のなかで
「平家いかに生きるべきか」
を探りつづけた良心的な人物が重盛、とされています。
そのために父清盛とのあいだに微妙な溝が出てきます。結果、
「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」
ということばに示されるように、かれは完全に〝板ばさみ〟になります。
忠というのは後白河法皇を核とする貴族社会に順応することです。孝とはその社会・体制をしばしば破ろうとする清盛に従うことです。両者はまったくちがう道をめざします。 有名なこのことばは〝二者択一〟に迷う重盛の苦悩を示すものです。
そしてもうひとつ、重盛には口に出せない苦しみがありました。それは義母時子と、時子の産んだ弟妹たちの目にみえないプレッシャーです。
重盛の母は高階というそれほど高位でない公家の娘です。しかしそんなことに頓着しない清盛は、重盛を長子として扱います。重盛はトントン拍子に出世します。
清盛と法皇との蜜月時代には、政略もあって重盛の息子維盛と清経は、藤原成親の娘ふたりをそれぞれ妻にします。重盛と成親は姻族なのです。しかも成親は法皇の寵臣です。
おそらく、
「なにごとも事を荒だてずに、がまんできることはがまんしてうまくやりたい」
という現実との折りあい主義(妥協)が、重盛の政治姿勢だったでしょう。
しかし清盛はちがいます。宋と交易をして富を得、福原を新都として〝新しい国づくり〟をめざす清盛は、考えようによっては「貴族社会の破壊」を志している、といえます。後世に出現する織田信長とおなじです。
これは解釈によっては、
「貴族から武士への政治権力の移行」
を意味します。清盛はジワジワとそれを実行します。
時忠を使って摂政基房に報復した「殿下乗合事件(第37回)」 は そのあらわれです。滋子の死によって急変した法皇の清盛へのきもちは、当然成親や西光に反映します。そのあいだに立つ重盛の苦悩はいよいよ深まるのです。
(NHKウイークリーステラ 2012年10月26日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。