前回のコラム第1回では、放送博物館、通称「放博」が、なぜたごやまにたっているのかというお話をしました。第2回からは、放送の“はじめて”を伝える放博の「お宝」=「展示物」をご紹介してまいります。どうぞ、お付き合いください。

さて、6月28日に気象庁は、九州北部、四国、中国、近畿と北陸で梅雨明けしたとみられると発表しました。これは統計のある1951年以降最も早く、最も短い梅雨となります。この時期は、1年のなかでも特に毎日の天候が気になる季節といえます。今回お話しする“はじめて”物語は、今や生活に欠かせない「気象情報」にまつわるお宝についてです。

日本ではじめてラジオ放送が始まったのは、1925(大正14)年のこと。
3月から試験放送を開始した東京放送局は、7月にここ愛宕山から本放送をスタートさせます。その初日、7月12日の番組表(複写)が当時の局舎の写真とともに、当館のヒストリーゾーンに展示されています。それがこちら。

この番組表によれば、本放送初日は午前10時より「君が代」の演奏。その後、東京放送局初代総裁の後藤新平による開局のあいさつが放送されたことがわかります。ところがよく見ると、その記念すべき放送の前にご注目! 午前9時より「1、天氣豫報」と記されており、気象情報が本放送最初の番組として載っています。なんと、気象情報はラジオ本放送のオープニングを飾る番組として放送されていたのであります。

放送開始当時の「さぐり式鉱石受信機」(1925年)

ところで現在の「気象情報」、いわゆる「天気予報」の歴史は明治時代にさかのぼります。1875(明治8)年、気象庁の前の東京気象台が業務を始め、1884(明治17)年6月1日からは毎日の天気予報が発表されるようになりました。ラジオ放送開始時から始まった「天気予報」は、1928(昭和3)年11月から「気象通報」として1日3回放送されるようになります。気象通報は気象台などで観測した各観測点の天候や気温、気圧などを伝えるもので、今もNHK第2放送で1日1回放送されているんです。歴史を感じますよね。

当館には、この「気象通報」に関する貴重な「お宝」が残されています。
それがこちら、「ラヂオ気象通報のしおり」です。

これは1930(昭和5)年に日本気象学普及協会という団体が発行、当時の東京中央放送局が編集したもので、気象用語や気象通報が放送されるまでの流れの解説、天気図の見方などが記されています。

まだ今のような正確な天気予報がなかった時代に、天気用語を正しく理解し、当時毎日くりかえし放送されていた「気象通報」を日常生活の中で活用してほしいとのねらいで、一万部を無料配布したということです。解説用に実際に台風が日本に接近した際の天気図もついています。

この「しおり」には天気予報の歴史についても触れていて、
「昔の天気は船に帆を張って風を唯一の力と頼んで走った時分、雄の三毛猫を一緒にのせた話が残っている。雨が近くなると猫が顔を洗うまねをするので雨の来るのを前もって知ることができるという理由からだ」
というちょっとしたトリビアまで紹介しています。

この「気象通報の栞」は表紙だけご覧いただける状態で、当館3階ヒストリーゾーンで展示しています。

こうして始まった放送による気象情報の提供ですが、太平洋戦争がはじまると天気予報は国防上、公にしてはいけない情報とされ、約3年8か月にわたりラジオ放送から姿を消します。驚いたことに、戦時下の一般市民は毎日の天気を知る手段がなかったということです。

その後1945(昭和20)年、終戦をむかえた一週間後の8月22日に天気予報は再び国民にむけて放送されるようになりました。久しぶりにラジオから流れた天気予報のアナウンスは、やっと戦争が終わったという安心感を国民に与えたということです。

そのエピソードは、2021年度後期 連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」の中でも、主人公・安子(上白石萌音)の義父・千吉(段田安則)が、ラジオから流れてきた天気予報に平和な日々が戻ったことを感じるシーンとして描かれていました。

今回は、放送の歴史に残る気象情報の「お宝」の話でした。「放博」は、実は「宝博」だとお気づきいただけたでしょうか(笑)。ぜひ、NHK放送博物館に「お宝」を見に来てください。ちなみに、こんなお宝もありますよ↓
https://www.nhk.or.jp/museum/book/kiki100sen02.html

(文・NHK放送博物館 館長 川村 誠


「NHK放送博物館」
https://www.nhk.or.jp/museum/