携帯端末に目まぐるしく流れ来るニュースの数々。刻一刻と移り変わる世界情勢。世界とは何か。歴史とは何か——。時代を読み解き、今このときを生きる審美眼を養う特別コラム第4回。
執筆するのは、NHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」をはじめ、多くの名作ドキュメンタリーを手がけてきた映像ディレクター・著作家の貴志謙介氏。全30回(予定)にわたり、ウクライナを軸に世界情勢とその背景にある歴史をひもといてゆく。

ウクライナ出身の音楽家は、亡命音楽家集団の主役でした。そのなかで日本の音楽界に絶大な恩恵をもたらした音楽家を3人あげるとすれば、ヴァイオリニストのアレクサンダー・モギレフスキー、ピアニストのレオ・シロタ。そして指揮者のエマヌエル・メッテルかと思われます。3人ともヨーロッパの音楽界で名の知られた世界最高の音楽家でした。

超一流の音楽家が、あえて西洋音楽の受容において貧弱きわまりない日本を選んで亡命――。いまから考えれば奇跡的なことのように思えます。

試みとして、モギレフスキーの足取りをたどってみます。故郷は、ウクライナのオデーサ。黒海に臨む、真珠のように美しい港町です。早熟の天才であったモギレフスキーは弱冠17歳のとき、ロシア皇帝ニコライ2世からストラディヴァリウスを贈られ、「ニコライ皇帝交響楽団」の「名誉コンサートマスター」という誉れある地位に就きました。

ヴァイオリニストの雄、アレクサンダー・モギレフスキーは亡命先の日本で音楽活動を行った。

しかしロシア革命が勃発すると、華麗なキャリアがかえってあだとなります。身の危険を感じたモギレフスキーは、内戦の混乱から逃れて、ヨーロッパヘの演奏旅行に明け暮れます。そして1926年に来日公演を果たし、そのまま東京で亡命生活に入りました。

また、やはり高名なピアニストであったモギレフスキーの異父兄アレクサンダールーチンは、神戸に逃れ、深江文化村に落ち着きました。その縁もあって、モギレフスキーは神戸を頻繁に訪れ、演奏ばかりでなく個人教授にも熱心にとりくみ、多くの後進を育てました。 

モギレフスキーの生徒の中に、ある天才少女がいました。のちにヨーロッパに渡ってベルリン・フィルと共演し、華々しく活躍した、伝説のヴァイオリニストです。

彼女が巨匠モギレフスキーのレッスンを受けることができたのは、1930年(昭和5年)、まだ11歳のときでした。諏訪の回想が残っています。

「さんざん叱られ、ポジション、音程、ボーイングと大変だったことをおぼえています」
「モギレフスキー先生にしてみれば本当に世話の焼ける生徒だったろうと思います」

幸運にも、修業時代に世界最高のヴァイオリニストから特訓を受けたことで、諏訪の才能が花開きました。モギレフスキーをしのぶ追悼論文集には、指揮者の近衛このえひで麿まろはじめ、そうそうたる音楽家、さらには一流の音楽家に成長した弟子たちによる感謝のことばがあふれています。

モギレフスキーの薫陶をうけたヴァイオリニストの諏訪根自子。その美麗な音色は、現在もCDで聞くことができる。協力:Altus Music(ALT3912/ 販売キングインターナショナル)

モギレフスキーは、ある音楽雑誌で、興味深い証言をしています。ウクライナには「オデーサ、ハルキウ、キーウに音楽学校があり、いずれも日本の上野(上野音楽学校=のちの東京藝術大学音楽学部)よりははるかにレベルが高い」というのです。

後ほどふれますが、ウラディミール・ホロヴィッツをはじめ、20世紀を代表する巨匠の多くがウクライナの出身です。モギレフスキーの指摘のとおり、ウクライナの音楽文化は驚くほど豊かでした。

たとえば、長きにわたりポーランドやハプスブルク帝国の一部であった西ウクライナ。あるいは黒海の交易を通じてイタリアの音楽文化が浸透していたオデーサ。いずれも西洋文化とのむすびつきが深く、音楽、文化、学問の伝統は早くから成熟していたのです。

音楽史の伝えるところでは、五線譜による記譜法、長調・短調の違い、和声の概念など西洋音楽のベイシックなスタイルをロシアに伝えたのはウクライナの音楽人であり、後にピョートル・チャイコフスキーなどの大作曲家に影響を与えたドミトリー・ボルトニャンスキーやマクシム・ベレゾフスキーなどの先駆的な音楽家もウクライナ人でした。

チャイコフスキー自身、そのルーツはウクライナで、作品にも、ウクライナの伝統音楽の影響がうかがえます。ちなみに映画史上の傑作『ノスタルジア』(監督アンドレイ・タルコフスキー)は、自殺した音楽家の悲劇をさぐる物語ですが、モデルはウクライナの天才作曲家ベレゾフスキーです。

ところで、ロシアの独裁者ウラジーミル・プーチンは、ロシアに都合の良いプロパガンダを広めるのに躍起で、ウクライナの文化や歴史を軽視しています。しかし「ウクライナという国家は存在しない」というプーチンの「信念」は、一方的な独断というべきです。

ちょうど1年前の7月12日、プーチンは「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」という論文をロシア語とウクライナ語で発表しました。「そもそもウクライナは、ソビエトがつくった」「ロシアの協力なくしてはウクライナは主権国家になれない」などと主張。ウクライナばかりでなく、世界中のメディアや歴史家からきびしく批判されました。

もっともらしい論文の体裁をとっていますが、その偏った主張は、ウクライナへの軍事侵攻を正当化するためのプロパガンダというほかありません。見逃せないのは、ロシアとウクライナをめぐる歴史をあきらかにするといいながら、プーチンの歴史観にとって「不都合な真実」を一切無視していることです。

ヨシフ・スターリンの収奪によって数百万のウクライナ人が犠牲となったホロドモール(大きん)、シベリアへの強制移住、ソビエトの秘密警察による農民の大虐殺、すべてなかったことにしています。自由と独立をめざして大量の血を流したウクライナ人のたたかいも、一切無視されています。

そもそも、いまもウクライナの人びとの悲しみの根源になっている弾圧の歴史を反省することなく、「ロシアとウクライナの一体性」などと声高に宣伝して、何の意味があるというのでしょうか。

まず記憶しておくべきは、ウクライナの言語や文化がロシア帝国やソビエトによって、いくたびも踏みにじられてきた事実です。ソビエトはロシア帝国のやりかたを受け継ぎ、ウクライナ語の出版を禁じ、劇場や学校でウクライナ語がつかわれることを抑圧しました。スターリンの時代には、ウクライナの民族音楽の継承者が抹殺されています。日本でいえば「人間国宝」にあたる吟遊詩人が大量に殺されたのです。おぞましい蛮行というほかありません。

それでも、ソビエトの圧政に耐え、ウクライナ人は独自の言語と文化をねばりづよく継承し、ウクライナ人であり続けました。

下段のコラムでご紹介するウクライナの古い歌は、ソビエト時代、当局によって歌うことが禁じられていました。自由と独立をもとめるウクライナ人の心情がこめられていたからです。しかし、ロシアによるウクライナ侵略がはじまってから、ウクライナを支援する世界中の人びとのあいだよみがえり、さかんに歌われるようになりました。

圧政によっても、人の心から歌を奪うことはできなかったのです。
(第5回へ続く)

【FEEL ! WORLD】
https://www.youtube.com/watch?v=LIUoFuSuvTM
この歌「The Red Viburnum in the Meadow」は、独立をもとめるウクラニアンの心情を歌った古い歌です。長いソビエト時代、歌うことを禁止されていましたが、今日までひそかに歌い継がれてきました。この映像では、リトアニアに避難したウクライナ難民が歌っています。

ことし2月、ウクライナの人気シンガー、アンドリーイ・クリヴニュークがキーウ(キエフ)からこの曲を熱唱する映像を投稿。それをイギリスのロックバンド、ピンク・フロイドがリミックスし、28年ぶりの新曲として発表しました。現在、ウクライナのレジスタンスを象徴する歌として、世界中で歌われています。

「Hey Hey Rise Up」 (feat. Andriy Khlyvnyuk of Boombox)
https://www.youtube.com/watch?v=Gx2tOCGG4ak

京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。