邦画の黄金時代を生きた希代の大スター・小林こばやしあきらさん(86歳)は、これまでの芸能人生を振り返って「とにかくツイていた」と語ります。「マイトガイ」の愛称で国民的スターとして映画と歌の世界に大きな足跡を残してきた小林さんの、そのドラマチックな人生とは──。

聞き手 迎康子この記事は、月刊誌『ラジオ深夜便』2025年6月号(5/16発売)より抜粋して紹介しています。


銀幕デビュー3年目の大ヒット

──デビューは1956年でしたね。

小林 1955年の春に日活に入って、半年間は俳優養成所で勉強しました。川島雄三監督の『飢える魂』という映画で役をいただいたのですが、この映画が封切られたのが1956年なんですよ。だからデビューは1956年といわれますが、日活に入った年にはもう現場で仕事をしていたんです。

──そのデビューの3年後の主演映画『南国土佐を後にして』が大変なヒットになりましたね。

小林 デビューからしばらくは青春映画が中心でした。そんなときに主演の話が来た作品なのですが、最初に渡された台本では『赤いダイス』というタイトルだったんです。ところが打ち合わせを重ねるうちに、まだ白黒映画が主流だった時代に「総天然色だ」という話になり、これも当時はまだ目新しかった画面の大きい「ワイドスクリーンだ」となり、作品の中身までが変わっていったんですよ。撮影が始まるころには、それまでの青春映画とは違う大人の世界の作品になっていました。  

その映画の中で、伏せたカップを左から右に素早く動かしながら5つ並べたダイス(さいころ)を中に入れて、右から左に戻してカップを取ると、中の5つのダイスが縦に積み上がるワンシェイクという技をやるシーンがあるんです。その場面を撮るときに斎藤いち監督が、「旭さん、カメラに装てんするフィルムマガジン*1を1本預けるから、それがなくなるまでの間にうまくできたら使おうよ」と言って、カメラを回しっぱなしで撮ることになったんですよ。マガジン1つで2000フィートのフィルムが入っているから、結構な予算になる。

責任重大だし、こっちは必死ですよね。しかも一度テストをしたら、ダイスが変な方向へ飛んでいっちゃった。そこで腹をくくって精神統一して、「とにかくいちかばちかやってみましょう」と本番を撮ってもらったら、最初の1回で成功した。しかも奇跡的なことに、ダイス全部が1を上にして縦に並んでいた。そのシーンがものすごく話題になったんですよ。そういう奇跡的なことが、映画の仕事の最中にはよくありました。あのころは天上天下唯我独尊で、やりたいことをしてはしゃぎ回っていましたが、すべてがツイていましたね。

*1 撮影用のフィルムを収めた遮光ケース。

──石原裕次郎さんも、同じ日活ですよね。

小林 彼と初めて会ったのは『びたナイフ』(1958年)という映画での共演で、そのときからツーカーの兄弟みたいに気楽につきあっていました。裕ちゃんが仕事抜きで本音で話していたのは、俺ぐらいだったんじゃないかな。

──回顧録には「四大スターで飲んだ酒」という章がありますが、京都まで車を飛ばして4人で合流したことがあるとか。

小林 銀座で飲んでいたら、偶然裕ちゃんと会ったんですよ。俺が「明日は休みだ」と言ったら、「じゃあ今から行くか」と言われて、その行き先が京都だったんです。車を飛ばして行ってみたら、店には萬屋よろずや(錦之介)と勝(新太郎)さんが集まっていました。

──すごいメンバーですね。

小林 みんな裕ちゃんには憧れを抱いていたと思います。石原裕次郎という人は、やっぱり希代のスターですよ。なんともいえない魅力、人間のでかさというのがあった。どこからつついてもびくともしないゆとりがあったね。金の話をしても、仕事の話をしても、女の話をしても、全部受け止めて消化しちゃうオーラを持っていた。憧れますよ。

※この記事は2025年2月5日、6日放送「マイトガイは永遠!」を再構成したものです。


1961年の初渡米での出来事や元パートナー・美空ひばりさんへの思い、芸能活動70周年を迎える気持ちなど、小林さんのお話の続きは月刊誌『ラジオ深夜便』6月号をご覧ください。

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