2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とはまったく別の視点で、平安時代末期を描いたのが2012年大河ドラマ「平清盛」だ。その放送時に、NHKウイークリーステラにて人気を博した歴史コラム、「童門冬二のメディア瓦版」を特別に掲載!

保元の乱後、頼長にかわって強力な政治家が登場します。信西です。信西というのは法号で本名は高階(藤原)通憲といいます。学者の家に生まれ、かれ自身もすぐれた学者でした。頼長の学兄でもありました。

妻が後白河天皇の乳人めのと(乳母)だったので、早くから後白河天皇のためにつくしました。保元の乱に勝利すると、信西はただちに政治改革にのりだします。

まず「死刑」を制度化しました。それまでの死刑は“私刑”でした。それを王命(法)によっておこなうことに改めたのです。乱で敗退した武士たちが最初の適用者になりました。法の前に私情は力をもちません。

信西は私情をおさえこむために死刑を制度化(公法化)した、といってよいでしょう。

つぎが土地の統制です。とくに荘園の私有化がはげしい九州に対し、「日本の土地はもともと王土(天皇の所有地)である」と宣言し、勝手に所有権を移すことを禁じました。

そのつぎに大寺大社の僧兵や神人のらんぼうなふるまいを禁止しました。

もちろんこういう思いきったことをおこなえば、改革される側の損失感は大きく、
「信西のやつめ!」
とうらみ、憎むのは当然です。

このときに、
「反対者はおまかせください」
と信西を応援したのが清盛とその一門でした。

信西の改革は
「日本の中世における国家の基礎をかため、鎌倉幕府にも影響を与えた」
といわれます。

そして、この改革の進行過程には、清盛の助力(武力)が大きくものをいっていたのです。

イラスト/太田冬美

清盛と信西の仲は親密で、清盛は信西の息子を婿にします。このことが義朝のきもちをいよいよ険悪にします。というのは義朝も信西への接近をはかり、
「ご子息を婿にいただきたい」
とたのんでいたからです。

信西からは、
「うちは学者なので武士とは縁組みできない」
とことわられたのですが、清盛も武士なのですから、これはりくつにあいません。義朝は信西・清盛ラインを深くうらみます。

そのうえ信西の改革は、あまりにも後白河天皇の権限をつよめる、いわば“王政復古”でした。多くの反対者は、やがて武力で結束します。

(NHKウイークリーステラ 2012年6月8日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。