2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とはまったく別の視点で、平安時代末期を描いたのが2012年大河ドラマ「平清盛」だ。その放送時に、NHKウイークリーステラにて人気を博した歴史コラム、「童門冬二のメディア瓦版」を特別に掲載!

祇園闘乱事件は、清盛を窮地に追いこみました。朝廷内での不評判もそうでが、平氏の次期相続人としての立場も危うくなります。異母弟の家盛が台頭したからです。このことでいちばん悩んだのが、やはり清盛の父、忠盛でしょう。

忠盛は事件をしるとすぐ手をうちます。乱暴を働いた者を7人、自発的に容疑者として院の役所にさしだしました。しかし、さわぎはその程度でおさまるものではありませんでした。

比叡山の僧兵や日吉神社のにんたちは、共同して祇園社のしん輿をつぎ出しては、「忠盛と清盛を流罪にせよ!」とシュプレヒコール(集団でスローガンを合唱すること)をあげました。

これを真っ向からうけて対応したのが、鳥羽法皇です。法皇の対応はつぎのとおりです。

・事件を徹底的に究明すること

・そのために強力な検断機関を設けたこと。同時にきびしい現場検証をおこなったこと

・検断機関のトップに摂政の藤原忠通、内大臣の藤原頼長、ぎょうの藤原顕頼などを据えたこと

・祇園社の現場検証では、清盛の側が射た矢が当たった宮殿などの被害、その他の社有財産の被害、武闘の具体的内容などの調査を実施

・忠盛がさしだした7人の容疑者へのきびしい拷問による尋問

などです。

そして法皇は、“僧兵・神人たちのさらなるプレッシャー(強訴)”を防ぐために、比叡山の西の下り口にあたる西坂下やほかの参道に、多数の武士を配置しました。このときは、源氏と平氏の名のある武士のほとんどが動員されたそうです。

イラスト/太田冬美

この一連の法皇の処置に、ぼくは法皇の政治的意図を感じます。それは、「武士の台頭をおさえ藤原摂関家の勢威を回復しよう、とする藤原頼長一派のおさえこみ」です。頼長は露骨に勢威回復の野望を態度で示していました。

それも、正面から“武士の違法行為”をあばき、法によるきびしい罰を与えようとねらっていたのです。しかし検断機関からの結果は、「清盛への罰金」。法皇は清盛に味方したのです。

(NHKウイークリーステラ 2012年4月13日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。