「アンパンマン」の生みの親・やなせたかしさんとその妻・暢さんをモデルに描かれている、連続テレビ小説「あんぱん」。
放送にあたり、ステラnetでは「やなせたかし」さんご夫妻をもっと身近に感じていただきながらドラマをより深くご覧いただけるよう、連載コラム「もっと知りたい『あんぱん』やなせたかしさんのこと」をスタートしています。

やなせたかしさんの秘書として20年以上にわたりそばで支えたこしまささんのインタビュー。第3回では、「戦死した弟・千尋さんのこと」「アンパンマンについて」「暢さんの戦後」などを語ってくださいました。

◆第1回インタビューはこちら(もっと知りたい!「あんぱん」と、やなせたかしさんのこと 秘書をつとめた越尾正子さんにお聞きしました | ステラnet
◆第2回インタビューはこちら(もっと知りたい!「あんぱん」と、やなせたかしさんのこと 越尾正子さん「今田美桜さんの表情や仕草で暢さんを思い出す」 | ステラnet


やなせたかし「年々さみしさが増す」戦死した弟への思い

——やなせたかしさんにとって戦死された弟・千尋さんはどのような存在だったのでしょうか?

やなせ先生は、「アンパンマンを描いていくうちに自然に弟の千尋に似てきた」とおっしゃっていました。自分が大切だと思っていることを表現して描いていくうちに、気づくと弟に似ていた、という感覚だったそうです。

若いころは、優秀な弟に対して、競争心やコンプレックスを持たれていたと聞いていますが、私が出会ったときには、「年を取ればとるほど、年々さみしさ、つらさが増す。もしいま千尋が生きていてくれていたらどんなに心強い存在だろう。昔よりも今の方が1000倍悲しい。ただただ、さみしくてつらい」とおっしゃっていました。まだ若く元気で、死など本来なら遠い存在なのに、戦争で死ななくてはならなかったことがつらさを何倍にもしているようでした。

1942年京都にて、やなせたかしの弟・千尋(左)と母・登喜子。千尋は、京都帝大卒業後に志願して海軍へ。駆逐艦乗員となり、23歳で戦死。 写真提供=やなせスタジオ

——先生が戦争体験をお話しされるようになったのはいつごろからでしょうか?

最初のころは「戦争の話はしたくない」とおっしゃっていました。その大きな理由として、「戦死した方が大勢いるのに、自分だけが生き残って戦地から帰ってきたことが申し訳なくて、戦争に行ったことは話せない」と。弟の千尋さんや、一緒に戦地に行って亡くなった仲間はもちろん、戦死した大勢の全ての方たちに、後ろめたさをずっと持たれていました。

転換期は、先生が90歳近くになられたときです。戦争体験をされた方が高齢になって亡くなられるのを目の当たりにされ、きちんと戦争のことは話しておくべきだという考えに変わられたんです。そして、『ぼくは戦争は大きらい』という本を出すことになりました。やなせ先生が一番におっしゃっていたのは、「一度戦地を体験したら、二度ともう戦争なんかしたくなくなる」。それほど、先生のなかで“戦争は絶対してはいけない”という強い思いが最後までありました。


いちばん大事なのは“人の心”を育むこと

独立後の漫画家・やなせたかし。 写真提供=やなせスタジオ

——戦争を経験されたことが、その後の作品づくりに影響を与えたのでしょうか。

先生は復員したときに、いま世の中にとって一番必要なのは“じょじょう的な感覚”、つまり心の豊さをはぐくみ根付かせることだ、と考えられました。
戦後すぐのときに、先生が居酒屋の座敷近くに置いていた靴を盗まれたことがあったそうです。まだまだ復興されていない日本で、物が足りず、靴自体を買うのも大変な時代でした。それからは、先生は必ず座敷の席まで脱いだ靴を持って盗まれないようにされていたそうです。

歳月を経ても、先生はいまだに靴を盗まれる夢を見るとおっしゃられていました。戦後は、戦地に行った人たちだけでなく、戦争を耐え抜いた人たちもどうにかして生きていかないといけない。他人の靴を盗まないと生活できない人も大勢いたわけです。先生はそういう状態を目の当たりにしたときに、人の心まで荒れているのだと実感されたそうです。

戦後の世の中で、抒情を定着させるためにはどうするべきかと考えた先生は、“抒情的なもの”が入った作品を描き続けられます。でも、なかなか理解されず、うまくいきませんでした。抒情はこれです、というものがないので難しいわけです。豊かな心を育むような、そういった作品を、先生は戦後ずっと求め続け、描き続けられました。

先生はさまざまな作品を描かれるなかで、『詩とメルヘン』という“抒情そのもの”をテーマにした雑誌を創刊します。抒情的な絵、抒情的な詩をたくさん掲載していきます。

『詩とメルヘン』以外の作品でも、絵本『やさしいライオン』などをはじめ、先生は抒情的な表現を入れて描き続けていきます。のちに、「自分の抒情的な思いを表現できるアンパンマンに出会った。非常にうれしい」と話されますが、先生が長い間、努力をし続けたからこそ、先生の思いを伝えてくれる『アンパンマン』という作品へとつながっていったのだと思います。

——アンパンマンは、大人も子どもも心を豊かにしてくれる作品ですよね。

アンパンマンがおなかいた相手に自分の顔をあげるという表現になったのは、敗戦後に“逆転しない正義”とは何かを考えた末の答えになります。先生が兵隊の頃に空腹のつらさを味わった経験からも、飢えた人に食べ物を分け与えることはどの国の相手にとっても正しいことだ、と。

「人の心が豊かになれば、争いごとを起こさないようにすることができる。そういうゆとりのある気持ちをお互いに持てれば争いごとはせずに済むんじゃないか。一番大事なことは“人の心”を育むことだ」——そういった思いが先生にありました。

「アンパンマン」は最初あまり理解されず、大人にはヒットしませんでしたが、小さな子どもたちがすごく好んでくれて……。先生は「『アンパンマン』に巡り合えてすごく幸せだった」といつも話していました。


戦後すぐに自立する、暢さんのたくましさ

愛犬を抱く暢。 写真提供=やなせスタジオ

——戦後の暢さんはいかがでしたでしょうか。

暢さんは先生と同じく、お父様を早くに亡くされて、母子家庭の長女として育ちました。ドラマでは登場しませんが、実際にはお兄さんがいらっしゃいました。それでも「家庭を守るためには私がしっかりしないといけない」という考えで学校生活を過ごされました。戦争は、そんな少女から大人になるまでの時期にあったんです。

戦後、女性は良妻賢母になるほうがいい、という考えが主流でした。そんな中で、暢さんは女性も何か技術を持って働かないといけない、と考え、速記を習われるようになります。自分はこういう仕事をやっていこうと考えて行動する自立した女性でした。

——そして、暢さんは高知新聞社に入社されますね。

速記の勉強をしていた暢さんは高知新聞社に就職します。暢さんが就職したころは、世の中に男性が少なかった。というのも、男性の多くはまだ復員してきていなかったんです。高知新聞社は女性を登用しましょうということで、いち早く2人の女性記者を入社させたと聞きます。先生は復員してきて、暢さんと同じ高知新聞社に就職するのですが、そのときは男性がたくさんで、先生が就職する時代は倍率が高かったそうです。

——男性社会のなかで暢さんは勤められていたのですね。

暢さんが高知新聞社に勤めていたとき、速記ができるから代議士秘書になってほしい、東京へ来てほしいと打診されます。そして、東京へ行きますが、当時としては、勇気のいることだったと思います。まだ女性は家にいるもの、という考えが根強い時代に、高知から東京へ出ると言う勇気。一人で東京に行き、自分は何をすべきかというのを考えて仕事をされたと思います。

今では当たり前のことでも、当時の女性としてはたくましいな、しっかりしているなと感じます。厳しい世界を歩まれたんじゃないのかしら。戦中、戦後と私たちには想像できない時代を、やなせご夫妻は生きられたんだなと改めて思います。

【プロフィール】
こしお・まさこ

株式会社やなせスタジオ代表取締役。1948年生まれ。高校卒業後、趣味で続けていた茶道の稽古場で、やなせたかしの妻・暢と知り合う。そのご縁で、1992年に有限会社やなせスタジオに入社。秘書として、20年以上にわたり、そばでやなせの作家活動を支える。やなせが亡くなったあと、2014年から株式会社やなせスタジオの代表取締役に就任。現在も、やなせの作品の管理に携わっている。

今後も、越尾さんが語るやなせ夫妻のお人柄や魅力をお伝えしていきます。「『手のひらを太陽に』誕生のお話」「晩年のやなせ先生」など、不定期でお届けしていく予定です。
やなせ夫妻をぐっと身近に感じながら、「あんぱん」をより楽しんでいただけたらと思います。

次回もお楽しみに!

(取材・文 松田久美子 [NHK財団])
(取材協力 やなせスタジオ、フレーベル館)

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