NHK放送博物館の川村です。さて今年は関東大震災から100年ということで、自然災害への備えについて例年以上に関心が集まっています。そこで今回は自然災害に放送がどのようにかかわってきたのか、その黎明期の時代をご紹介します。


日本のラジオ放送は関東大震災がきっかけだった

1923年9月1日、関東一帯を巨大地震が襲いました。大都市を襲ったこの未曽有の災害の経験から日本でもラジオ放送を求める声が大きくなり、1925年にこの国のラジオ放送が始まりました。特に求められたのは、いち早く被害状況を伝え救援活動につなげるための速やかな情報伝達手段です。

同時に混乱時における流言飛語を防ぐことも大きな役割として求められました。関東大震災ではデマにより朝鮮の人たちをはじめ多くの人々が虐殺されるという事件があったためです。こうした経緯から日本の放送は始まっています。災害と放送はそのはじまりから切っても切れない関係にあります。


放送が初めて伝えた大規模自然災害~室戸台風

放送が始まってから起きた最初の大きな自然災害のひとつが1934年(昭和9年)9月の「室戸台風」です。この台風災害は9月21日に高知県の室戸岬に上陸し、京阪神地区を中心に中四国地方を含め死者・行方不明約3,000人、負傷者約15,000人、住宅の全半壊・一部損壊が約93,000件という甚大な被害を及ぼしました。

大阪市内の被災状況 当時の朝日映画ニュースより

「ラジオ年鑑 昭和10年版」によると、この時大阪中央放送局をはじめ関東から中四国まで14の放送局も被災し、一部の管内では停電やアンテナの損壊により電波も止まってしまうなど放送に影響が出たという記録も残っています。中でも大阪中央放送局では千里放送所のアンテナ故障に加え30時間以上に及ぶ停電のため、蓄電池を使用してのごく短時間の放送しかできませんでした。そのぐらい大規模な災害でした。

当時の大阪局の9月21日の第一放送番組表はこの日以降の番組予定についてまとめて掲出されています。これを見ると通常の番組はすべて中止となり、各局の被災状況についても記述があります。

この表の備考欄には「BKは送電を絶たれ放送不能。またBK以西は中継線故障、BK以東のみ完全なるも災害の程度にかんがみ、これを貸しスタジオの形式としても放送せず。(AKと打合せの上)」という記述があり、混乱した状況がよくわかります。
またこの番組表には、その後の放送方針についての文書が合わせて添付されています。

この文書によると9月21日の発災時から1週間を「災害非常時週間」としてラジオの機能を最大限発揮するよう求めています。22日以降は第2放送だけを使い午前中の数時間程度だけ放送されたことが番組表にのこっています。         

1934年9月22日の大阪第2放送の番組表
予定されていた番組に×印がつけられている

その第2放送の番組表を見ると午前6時25分から英語講座、そのあと少し時間が空いて8時から天文講話、8時30分から大阪中央気象台技師による「昨日の京阪神地方の台風について」という解説番組が放送されています。それ以降の放送は休止となっています。なおこの時すでに第1放送は終日中止されています。台風災害による混乱状況がうかがえます。それでも各放送局は、電源と施設の復旧に努め、早期の電波確保につなげました。

ところでこの時、被災地の放送局では水没した受信機の取り扱いの説明や応急修理のために各地に職員を派遣して、放送を出すだけでなく聴取者の支援を通じて地域の復興にも尽力しています。           

被災地をまわったJOBKの巡回サービス自動車「ラヂオ年鑑」(昭和10年)より

戦争で途絶えた災害・防災報道

しかし太平洋戦争が始まると、放送と自然災害の関係に大きな変化をもたらします。1941年12月8日の太平洋戦争開戦と同時に、天気予報はラジオから姿を消してしまいます。気象情報は、戦時中は敵国に知られてはいけない秘匿すべき情報ということからです。当日の天気は攻撃目標の把握に重要な情報でしたが、米軍は独自に航空機により日本の気象情報の把握をしていたので、結果として情報の秘匿が、日本国民を自然の驚異にさらしていたことになります。

戦時中には1944年の東南海地震、1945年の三河地震と立て続けに大地震が発生しましたが、こうした情報も国民に詳細が伝えられることはなく、結果的に災害の全容もわからないまま救援活動も十分に行われませんでした。ただこの地震も国内では情報が秘匿されましたが、米国側は地震の事実を把握していたといわれています。   

三河地震で倒壊した民家(1945年1月13日発生)
東南海地震の被災状況(1944年12月17日発生)
(いずれもNHKアーカイブスの映像より)

進化する災害報道

そして1945年8月22日、終戦によってラジオに天気予報が復活します。戦後は電波の民主化によって災害報道もより地域の人たちの生活に身近で役立つ情報を伝えるようになっていきます。さまざまな機材の開発によっていち早く現場に取材者が向かい、詳細な状況を逐一電波にのせるようになります。

戦後すぐに起きた洞爺丸台風ではすでに航空機による上空からの取材も行われています。そして1953年にテレビ放送が始まると映像による災害報道が本格的に始まります。

テレビ黎明期に活躍したヘリコプター ベル47型(旧東京放送会館屋上)

特にヘリコプターや固定翼機による航空機取材は、上空からの撮影に加えて撮影したフィルムをいち早く放送局に運び込むために大活躍しました。

そして時代は大きく流れて今では当たり前になった地震などの瞬間を記録するスキップバックレコーダーや、スマートフォンで撮影された映像などの活用によって、限りなく災害の発生から放送までの時間は短縮されるとともに、実際の被災状況をより詳細に伝えられるようになりました。自然災害とは切っても切れない関係にある日本では、放送が担う役割はまだまだ大きいのです。  


コラム「放送百年秘話」は、月刊誌『ラジオ深夜便』にも連載しています。
第6回は、11月号(10月18日発売 定価420円)に掲載。