――1989(平成元)年のデビューで、歌は船村先生作曲の『男同志』。作詞は星野哲郎先生。すごいコンビですね。

香雲 うれしかったですね。実はそのときまで7年間、実の母親に会っていなかったんです。それで船村先生が、「新幹線の切符をあげるから報告に行ってこい」と言ってくださって、九州まで会いに行きました。小倉駅の改札口で待ち合わせしたんですが、久しぶりすぎて何か変な感じでね。「このたび私はデビューすることになりましてご報告にまいりました」って敬語で(笑)。向こうも「それはどうも」って。よそよそしくなっちゃいました。

――でもお母さんも喜んだでしょう。

香雲 そうですね。デビューした年の年末に日本レコード大賞新人賞をいただいたときは、武道館まで見に来てくれてね。その翌年くらいから、ようやく親子らしい会話ができるようになって、「ゆくゆくは一緒に暮らそうね」と話してたんです。そのやさき、母が胆石で入院し、あっという間に亡くなりました。まだ42歳の若さでした。入院する直前まで地方のキャンペーンにも駆けつけてくれて。それが唯一の親孝行でしたね。

――その後は『手酌酒』が大ヒットし、1994年には「NHK紅白歌合戦」にも出場。演歌界のホープとしてスターの道を歩むのかと思われましたが。

香雲 バラエティー番組に出演するようになって、すごくストレスを感じてしまったんです。歌の宣伝のためという名目で出てたんですけど、僕じゃなくてもいいような仕事がどんどん入ってきて。北島三郎さんや鳥羽一郎さんを目標に、これから歌で頑張っていこうと思っていましたし、そのために上京したんです。でも「出たくない」って言ったら「じゃあ芸能界辞めろ」と言われるしね。だから言われるがままにやっていました。

――おバカキャラみたいな演出もありました。

香雲 あれはね、バラエティーをやめたいと思って、ふざけたことを言ったんですよ。「この番組にもう出ないで済むように、適当なことを言ってやろう」と思って言ったら、それが受けちゃって。それからずっとその仕事が入るようになってね。

――どんなお気持ちでしたか。

香雲 自分が目指す方向とどんどん違う方に向かい、押しつぶされて、しゃがみながら歩いている感じです。まっすぐ立って歩けるような状態じゃなくて、ぐうっと頭を押されてるのに、立とう立とうとしながら歩いてるような。
あのころを耐えられた理由の一つは、「俺は船村先生のとこで頑張ったんだぞ。あの厳しい先生のとこに3年いたんだぞ」という自負でした。ここで辞めたら先生の看板を汚すことになる。絶対にここは負けられない。自分の時代が必ず来ると思い頑張っていました。

――その後、引退を決意された理由は。

香雲 これはもう辞めるしかないな、これ以上やっていたら体を壊すなというとこまで来たんです。
※この記事は 2023年7月12日放送「道に迷うことこそ 道を知ること」を再構成したものです。

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