2021年7月23日夜、東京五輪の開会式が放送されました。個別パートで印象深いものはあるものの、全体の統一感がなく、ストーリー性やメッセージ性も見えづらいものでした。コロナ禍の中での開催で「分断の象徴」となった五輪ですが、開会式がそれを挽回する良質な対話機会とはなりませんでした。

開会式をめぐっては、直前までさまざまなトラブルが続きました。女性差別、外見に対する侮蔑、障害者差別、ユダヤ人差別の歴史軽視などが発覚し、参加クリエイターたちの適格性が問われ、辞任や解任が相次ぎました。開会式の統一感のなさは、そうしたことの積み重ねによるものなのかもしれません。

さて、今回の大会のように、「人選をめぐって炎上する」という出来事は、予想外のことでしょうか。いえ、むしろこうした騒動は、必然的かつ回避不能なイベントであるとさえ言えます。どういうことでしょうか。

五輪参加国は建て前上、崇高な理念を掲げた五輪憲章を受け入れます。日本の組織委員会も「多様性と調和」を掲げ、「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合う」(大会ビジョンより)ことを謳っています。そして各国の選手が出場し、国の「代表性」が問われがちな五輪は、多くの人の関心を集めます。

「一貫性の原理」。これは、信念や態度を一貫させておきたいという心理で、人や組織はこれに縛られます。人や組織が何かの「看板」を一度掲げたなら、それが建て前であったとしても、「掲げた理念」と「その後の行動」の一貫性が外からも内からも問われるようになるのです。

五輪憲章を謳う組織やSDGsを支援した企業が何かの問題を指摘され、「こうした点は、その理念に矛盾するのではないでしょうか」と問われると、その場は不安定な緊張状態に陥ります。批判者は看板に着目し、掲げた理念とのズレを説明するよう求めます。批判された側は、それに応じる中で、多少なりとも看板に合わせようとするでしょう。こうした動きを、「看板効果」と呼んでおきましょう。

五輪時の「看板効果」は、他国でも見られた現象です。「五輪をやるなら野宿者排除をやめろ」「五輪をやるのに性的マイノリティーを排除するのか」「五輪をやるくらいなら教育にお金を使え」……。それぞれの国の現状と大きく乖離した看板を掲げると、当然そのギャップについての説明を求める声が出てくることになります。ただ、人々が看板に掲げられた理念に興味を持たなかったり、専制的な政権が批判を無視・弾圧したりすれば、「看板効果」は弱くなります。つまり、どの程度ズレが改善されるかは、批判者と応答者のコミュニケーションのあり方で変わるのです。

東京五輪の場合、「看板効果」もあって、開会式の個別の人選は変わりました。他方、日本全体を見ると、性的マイノリティーの権利につながる法律や、外国人の人権につながる法律など、持続的に行わなければならない議論は、まったく不十分なまま。これは、人々の無関心によるものか、政治による無視によるものか、どちらだと思いますか。

(NHKウイークリーステラ 2021年8月27日号より)

1981年、兵庫県生まれ。評論家、ラジオパーソナリティー。NPO法人・ストップいじめ!ナビ代表、社会調査支援機構チキラボ代表。TBSラジオ〈荻上チキ・Session-22〉(現・〈荻上チキ・Session〉)が、2015年度、2016年度ギャラクシー賞(DJパーソナリティ賞、ラジオ部門大賞)を受賞。近著に、『みらいめがね』(暮しの手帖社)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『すべての新聞は「偏って」いる』(扶桑社)など。