私は、NHK財団の国際制作部でプロデューサーとして英語版制作を担当しています。今回は、大変印象深かった特集ドラマ「ももさんと7人のパパゲーノ」について制作現場の様子や私自身が感じたことなどをお話します。
国内では、2022年8月終わりに放送されました。子どもたちの中には、長い夏休みの後、9月の新学期を控え、悩みを抱える人も少なくありません。NHKでは、以前から番組やウェブサイトなどで特集を組み、こういった「生きづらさ」に耳を傾けてきました。このドラマはNHKが運営するサイト「自殺と向き合う」に寄せられた投稿や取材を元に描かれました。英語字幕版は、国内放送から少し遅れて、9月10日の世界自殺予防デーに合わせNHKワールド JAPANで放送されました。
◆I wanna die?
「死にたい、でも、生きてる人」が、このドラマの主人公です。
この番組の英語化するにあたり、当初より大きな課題がありました。それは、「死にたい」をどう英語で表現するか、という点です。
ももさんはこのドラマの冒頭で、川べりに横たわりながら、遠い目をして、こうつぶやきます。
「死にて~」
最終的に、ここにつけた字幕は、
I wanna* die. でした。
*wannaは、want toの口語形
(NHKワールド JAPANのVODページに移動します)
ここに至るまでには、さまざまな議論がありました。【I wanna die】自体には、自殺という意味はありませんが、この英語表現自体が「死」を強く連想させはしないか、検討が必要でした。なにより海外に向けて放送する際「死」を不用意にあおることになっては元も子もありません。
代案として、dieを使わない表現を考えました。例えば、I wanna disappear. 「消えてしまいたい」/I wish I wasn't alive. 「生きていなければよかった」/ I wanna end my life. 「人生を終わらせたい」などです。どれも「die」を使っていませんが、日常的な英語として不自然で、逆にドラマチックになってしまう危険性もありました。
私が見て感じたこと。それは、ももさんの言葉は真実でなければ、見る人に共感は生まれないであろう、ということでした。「死にたい」、でも、パパゲーノは生きるのです。だからこそ意味がある I wanna die. なのだ、と。
正直で偽りのない、ももさんの気持ち。それはとにかくダイレクトに翻訳するしかないと考えました。
ドラマの制作チームは、メディアが視聴者に与える影響についての知識を持ち、専門家の力も借りて、「死にたい気持ち」ばかりがクローズアップされぬよう、細心の注意を払って作っています。英語化でも同じです。NHKワールド JAPANとも代案なども含めて検討を重ねました。
◆専門知識を生かして/私のこだわり
私は、アメリカの大学院で心理学を専攻していたため、専門知識が役に立つかと考えていましたが、台本を確認し始めると、その必要はあまりないことがわかりました。登場人物は会話の中で難しい言葉など使っていないため、日本語から英語に翻訳する上でそれほど苦労することはなかったと思います。ただ、流れの中で、番組制作者が目指したパパゲーノ効果をしっかりと引き継ぐため、海外での論文や欧米の「自殺」報道ガイドラインを事前に確認しました。
翻訳上、経験が役に立ったと言えば、カウンセリングのシーンでしょうか。日本語から英語に直訳すると、欧米のカウンセラーであれば、おそらく言わない表現になってしまう箇所があったのを、日本語の意味から離れず、場面として違和感のない英語に修正しました。
それは「箱根で死にたい」というメモ書きをしたクライアントに対してのカウンセラーの「おれ箱根好きだなぁ。」というセリフでした。当初翻訳者から示された案では、 I love Hakone. でしたが、Hakone must be a nice place. (箱根はきっとすてきなところなのでしょうね)に修正するようにお願いしました。英語での標準型精神療法では、カウンセラーが自らの意見を「I」を主語にして述べることが不自然に見えてしまうから、です。最終的にはセリフに対し字幕が長すぎるため、Lovely place. のみとなりましたが、私のこだわりでした。
◆わたしもパパゲーノのひとり?
今回、英語化の制作過程で、ふと「7人目のパパゲーノは誰だ?」という疑問が英語化チーム内で持ち上がりました。ドラマ内では、誰がパパゲーノなのか、言及されていません。誰もがパパゲーノに見えるのです。それはとても興味深いことだと思いました。「死にたい、でも、生きる人」は決して特別ではないので、見ている方もたぶんそれに気づかないのです。
そんな私もパパゲーノのひとりかもしれないと感じました。ただ、人前でオープンには話せません。社会に見せている自分がいるからです。NHKが運営するサイト「わたしはパパゲーノ」は、そういった気持ちを語る場所として公開されています。ドラマと連動しているウェブサイトで、ハンドルネームを使い、プライバシーを侵されることなく、オープンに仲間を見つけることができます。まずは、恐れず、自分の苦しみを語ってみませんか。SNSで「パパゲーノって知ってる?」と書いているインフルエンサーもいます。「パパゲーノ」が少しずつ広がっています。
◆世界への広がり
「死にたい気持ち」への理解を深める・・・これは、世界共通の課題です。「あなただけじゃない」「一人じゃない」日本国内のみならず、英語版のサイトもリンクして世界中からコメントを受け付けるなど、パパゲーノの集いがグローバルレベルで大きく広がっていくことを願っています。
◆NHKワールド JAPANのVODで見れます!
「ももさんと7人のパパゲーノ」の英語字幕版は、NHKワールド JAPANのオンデマンドでご覧いただけます。日本語と比較して、どんな英語表現になっているのか字幕で確認できます。2023年9月10日までですので、それまでにぜひ!
「ももさんと7人のパパゲーノ」の概要や「パパゲーノ効果」についてはコチラ(NHKの特設サイトに移動します)
私が初めて英語で「自殺する」という表現を知ったのは、遠い昔、和英辞書上のことでした。Commit suicide と書かれていたことを覚えています。Cambridge Dictionaryによると、その表現は” a phrase used to mean “to kill yourself”, which is now considered offensive because it suggests that doing this is a crime.”と説明されています。Commit は「罪を犯す」Commit a crime として使われる表現であり、侮辱的なのだそうです。希死念慮は、不名誉なことでも恥ずかしいことでもない、むしろ自然な精神的反応で、決して「罪」ではないということだと考えます。私自身、commit suicideを英語圏メディアで見たことがありません。kill oneselfという表現も見かけません。海外メディアが客観的に「自殺」を表現する場合はdeath by suicideが多いようです。自殺防止の観点からも、私たちは、「死にたい」気持ちを一人で背負ってしまわないよう、オープンに語り、共助しながら生きる土壌を作ろうとしています。メディアに何ができるのか、課された責任は大きいです。
日本語で「とても悲しい」というセリフがあったとします。「悲しい」を和英辞書で調べてみますと、一般的にヒットするのがunhappyやsad です。しかし、実はunhappyというのは英語ではあまり強い感情表現ではありません。Sadも一般的に使われる言葉ですが、あまり強い感情表現とはとらえられていません。英語では状況に応じて「悲しい」の表現が異なってきます。例えば、depressed / helpless / hopeless / torturedなどは非常に強い「悲しみ」を表現する際に使われる言葉です。「悲しい」がどのような状況で語られたものか、制作したディレクターから情報を得て、もっとも正確な言葉を当てる必要があります。単に I feel sad. では英語圏の方に深刻さが伝わらない場合もあるのです。
取材・文/NHK財団 国際事業本部 中山理美(英語版制作プロデューサー)
プロデューサーとして、英語ネイティブの和英翻訳のプロや制作者との調整、音響効果、収録、字幕、テロップ入れなどのスタジオ業務など全般をまとめ、番組を完成させています。現在もさまざまなジャンルのNHK番組を英語化しています。それらは、NHKワールドJAPANで放送、または国際コンクールに出品されています。