聞き手/工藤三郎
折り紙と段ボールの金メダル
――小さいころの昴さんは、どんなお子さんだったんですか?
瀬古 まあ私が言うのも変ですけど、私とは性格が違って、頭の中身も違って。結構勉強ができてすごく優秀だったんですよ。うちのかみさんに似て良かったなと思いました。私もマラソンの成績は良かったけどね(笑)。
――1986 (昭和61) 年の9月9日が誕生日。ちょうどまだ瀬古さんが現役のランナーで頑張ってらっしゃるころでしょう?
瀬古 1988年のソウルオリンピックのときに昴は2歳ですかね。なんとなくお父さんは選手だったんだなってのは覚えてる、というようなことは言ってましたね。
――ソウルオリンピックは、瀬古さんにとって最後のマラソンになるんですね。代表決定になった琵琶湖のレース(びわ湖毎日マラソン)は、私も中継で覚えてるんですけれども。
瀬古 そうですよ、あれちょうどNHKでね。あれ、工藤さんは実況してなかったかな?
――第2放送車に乗っていて、瀬古さんの姿は、スタートのあとは全く見えませんでした。
瀬古 そうですか(笑)。いやあ、あのレースはね……。本当はその前の福岡国際マラソンで代表が決まるって暗黙の了解があったんです。でも私がけがして福岡に出られなくて。それを考慮して日本陸連でも諸々あって、琵琶湖が最終予選になったんです。やっぱり周囲や世間から非難を浴びましたよ。
――そんな状況でのびわ湖出場は、プレッシャーは強かったでしょう。
瀬古 いやー、めちゃくちゃありましたね。レース自体も大変でしたけど、もう、本当になんかもう針のむしろでね、福岡国際マラソンから3か月間くらいそんな感じでしたね。
――そんな状況を乗り越えて代表になったソウルは、残念ながらメダルを取ることはできなかったんですが、日本にお帰りになって、それこそ昴さんが何かプレゼントをくださったと聞きましたが。
瀬古 家に帰ったら、家内と昴が「お帰り、お父さんはよく頑張った」って出迎えてくれたあと、折り紙と段ボールで作ってくれたメダルの授与式をしてくれました。いや、そのときはもう、大泣きしましたね。やっぱり持つべきものは家族だな、子どもがいて良かったな、と思いました。
――昴さんは大学に進まれると、環境問題に深い関心を持たれたそうですね。
瀬古 すごいんですよ。私がトイレ入るでしょ、電気消さないで出てくると、「お父さん電気!」とか言ってすぐ消しちゃう。もう、家じゅうの電気消しまくってんの。
あと、「お父さんね、マイ箸とかマイコップをどう思う? お父さんの同級生のサッカーの岡田監督はね、学生時代からいつもマイ箸、マイコップを持って歩いてんだって。僕、講演会聞いてすごく感動した。お父さんとは全然違う」とか言ってました。
――サッカー男子日本代表の元監督の岡田武史さんですね。お父さんと全然違うと(笑)。
瀬古 私なんかそんなの考えたこともないもんで(笑)。昴は、歯を磨くときの歯ブラシもね、だんだん古くなってくるじゃないですか、そうすると捨てる前に「今まで僕の歯を守ってくれてありがとう」と言ってから捨てるんですよ。そういう優しい面もあってね。
――昴さんが病気にかかったのは、いつごろですか?
瀬古 2012(平成24)年ですかね。25、6のころだから、いちばんこれから何かをしたいって思う年頃だったと思います。
――症状が重くなられてからは、瀬古さんがマッサージをなさってたんでしょう?
瀬古 はい、2年ぐらい前ですかね、昴が「お父さん、僕、マッサージしてほしい。マッサージしてもらうと病気が治るような気がする」って言うわけですよ。それで「お前が治るんだったらしてあげるよ」って答えてマッサージを始めたんです。
で、2、3か月たってから、昴に「お父さん。僕ね、一日の中でお父さんにマッサージしてもらう時間がいちばん楽しみだ」と言われました。私、そのとき涙出そうになって。本人には言わなかったんですが「もう、毎日どんなことがあろうがマッサージしてやろう」と思って、もうほとんど毎日しましたね。
だって、息子に今日一番の楽しみがマッサージだって言われたら、そりゃしなきゃいけないでしょ(笑)。でも、なんかうれしかったなぁ。初めて息子がお父さんに言ってくれた本音っていうかね。
――いや、本当にうれしかったでしょうね。
瀬古 初めてですからね、昴からそんな優しい言葉をかけられたのは。だって、いっつもけんかしてましたから。必ず「それは違う」とか言って私に反対するんですよ。なんかお父さんの意見は認めたくなかったみたい。「お父さんは脳みそが筋肉だ」とかよく言われましたから。まあ、確かに間違ってはいないけど、息子に言われたくねえなぁと思いましたね(笑)。だから、「お前な、お父さんの脳みそは頭の中じゃなくて、足の中にあるんだぞ」って言い返してました。
――笑ってました?
瀬古 笑ってましたね。だから、私にも多少そういうおもしろいところがあるじゃないですか、ギャグ言ったりとか。それが自分にはないから、ユーモアも大事だと思いながら本を書いたんじゃないでしょうか。
「お父さんのこと、大好きだよ」
――そういう息子の親に対するまなざしというのもうれしいですね。
瀬古 そうですねえ。亡くなる1週間前にね、昴から電話があったんです。すぐ出られなかったので後で掛け直したら、昴に「お父さん、僕がいちばん大事なときに何でお父さんは電話に出ないんだ。だからお父さんはダメなんだ」って怒られたあと、「僕ね、明日からもう声が出せなくなるかもしんないから、お父さんに大事なこと言うね、よく聞いてて。僕、お父さんのこと、大好きだよ」って言われたの。私は「あぁ、そうかぁ、ありがとう……ありがとうな。お父さんも、昴のこと大好きだからな。よーし、必ずこれから治してな、また元気でやってこう」ってね……うん、まあ、そういう話をしました。
――昴さんが亡くなってまだそんなに日もたっていないので、これから寂しさが襲ってくるときがあるような気がしますけれども。
瀬古 でもね、うちのかみさんの夢枕には昴がよく出てくるらしいんだけど、私のところにはまだ一回も出てこないん ですよ。「昴 早く出てこいよー」って言ってんのにね、全然反応薄いですね、息子。やっぱり嫌いだったのかな、とか思いますね(笑)。
――2年後にはパリオリンピックの開催が予定されています。日本マラソン界の強化に向けて、ますますお忙しくなっていかれると思いますが。
瀬古 はい、まだまだやることいっぱいありますね。私も65歳になりましたからね、もういいおじいちゃんで。あ、今度ね、初孫が生まれるんですよ。
――あ、それはうれしいですね。
瀬古 はい、これまたうれしいですね。生まれたらね、昴の生まれ変わりだと思ってまたかわいがんなきゃいけないね、本当に。
――お孫さんと、今度はどんなおつきあいになるのか楽しみですね。
瀬古 昴の生まれ変わりだったら、またちょっと厳しいことを言われそうだな(笑)。
撮影/渡辺達生
瀬古さんは努めて明るく語ってくださいました。冗談やダジャレに包みながら、心の底に沈めた悲しみを隠すように。モスクワ五輪ボイコットや世間の毀誉褒貶にも耐えてきた瀬古さん。その姿とつらい闘病をユーモアあふれる文章でつづった息子さんの気丈さが重なって見えました。昴さんのご冥福をお祈りします。
※この記事は、2021年10月20日放送「息子がくれた心の金メダル」を再構成したものです。
(月刊誌『ラジオ深夜便』2022年2月号より)
購入・定期購読はこちら
10月号のおすすめ記事👇
▼大江裕が語る師匠・北島三郎
▼90歳を超えても現役でいたい!中村梅雀
▼俺は漁師でピアニスト!
▼全盲のヨットマン・岩本光弘 ほか