『シクラメンのかほり』や『あいさんさん』など、数々の名曲を生み出してきたぐらけいさんは、銀行に勤めながら27歳のときにアルバム『青春〜砂漠の少年〜』でデビューしました。
布施明さんや美空ひばりさんらにも楽曲を提供、世に送り出した曲は約2000曲に上るそうです。2021年、歌手活動からの引退を発表して世間を驚かせた小椋さんに、引退の真意やこれまでの歩みをうかがいました。
聞き手/嶋村由紀夫

引退の最大の理由は体力の限界

——今年、歌手活動を引退したいとおっしゃいましたが、理由は?

小椋 最大の理由は体力ですね。だから、秋から始まる予定のファイナル・コンサート・ツアー「余生、もういいかい」を最後にしようかなと思ってます。1回につき2時間半ぐらいのステージですけど、体がもつかどうかとっても心配です。

若い日はもう歌うことが楽しくてしかたがなかったんですが、このごろは歌うのがしんどいんですよ。自分が思うように歌えなくなってきてるんですね。昔の自分のレコードを聞くと「どうしてこんな声が出せたんだろう」と思うんですよ、本当に。

——そもそも、歌に目覚めたのはいつごろですか?

小椋 目覚めたっていうのも変ですけど、幼いころから歌うことは大好きでした。歌を作り始めたのは高校時代ですね。それまでは、ラジオやテレビから流れてくる歌の中から気に入った歌を選んで歌っていましたが、このころになるとどの歌を聞いても不愉快に感じるようになってきたんです。「作ってる人は本当にこう思って作ったんだろうか。なんかしらじらしいな、うそくさいな」と思うようになって歌えなくなっちゃったんですよね。

そこで、中学時代からつけている日記の中の言葉をピックアップして、そこにメロディーをつけて口ずさむようになったんです。それが僕の歌作りの始まりでした。

——どうやってあんなにすてきな歌詞を作れるようになったんでしょうか。

小椋 すてきかどうかは分かんないんですけど、僕の歌は詞がいいっていう評価をよくいただきます。僕は高校時代に言葉を精密に使う哲学の世界にのめり込むなど、言葉には相当こだわる性分の男なんですね。そのこだわりから生まれる僕の歌の言葉が、ある種新鮮だったり斬新だったりしたんでしょうか。時代に合っていたのかどうか分かりませんが、それで評価いただけたのかなと思います。


世に出ない可能性もあったデビュー作

——そして1971(昭和46)年にアルバム『青春〜砂漠の少年〜』でデビューですね。

小椋 芸能界にはデビューという言葉がありますけれども、僕にははっきりとはデビューした記憶がないんですよ。LPが発売されたときは僕、日本にいませんでしたから。銀行に入って4年たったころで、アメリカのシカゴにある大学院に留学中だったんです。

——私もそのころ学生で、小椋さんの歌をよく聴いていた思い出があります。

小椋 でも実は当初、僕のデビュー作は世に出ないはずだったんです。レコード会社さんで新作を世に出すかどうかを話し合う会議があったんですが、出席した重役からは「小椋佳の歌は眠い」という意見が相次いだそうです。しかも履歴書を見たら銀行員で25歳だと書いてある。最後に配られた僕の写真を見て「こんなの絶対ダメだ」っていう話になり(笑)、一旦は没になりました。

ところが担当のディレクターさんは血気盛んだったんでしょうね。「小椋佳の歌を理解できないような重役連中は辞めるべきだ」っていう運動を社内で起こしたため、重役の怒りを買ってディレクターを降ろされて大阪支店の営業に異動になったんです。ところが、彼がそこで出会った映画監督のもりたにろうさんに僕のデビュー作のテスト版を聞かせてみたら、「これいいじゃないか。僕の正月映画のバックにこの歌をどんどん流すよ」と言ってくださったそうです。で、それが本社に伝わると、「映画のバックに流れるんだったら、宣伝になるから一応出してみようか」っていうことになったらしくて(笑)。

レコード会社さんからは売れないだろうと思われていた僕のデビュー作でしたが、時の運に恵まれたんですかねえ、じわじわと売れてきちゃって。レコード会社さんはびっくりしたんでしょうね、シカゴに留学していた僕宛てに「シカゴにいる間に歌作りをどんどん進めてくれ。帰国早々第2弾を出してほしい」っていう手紙を送ってきました。


銀行は歌手活動を「温かく無視」

——歌手として歌いながら、銀行にも勤めていたと。会社的にもいろいろ問題になることが多かったんじゃないかと思いますが。

小椋 最初、僕は特に気にしてなかったんですが、銀行の先輩が心配してくれまして。というのも、銀行員は原則として、銀行以外に別の業を持っちゃいけないんです。それで先輩たちが僕の留学中に「こんな若いのが出てきたけど、どうしましょうか」って人事部におうかがいを立ててくれたらしいんですよ。そしたら人事部は「どうせ売れっこないから大して問題にならない」と判断して放っておくことにしたそうです(笑)。

——銀行のお仕事と一緒にやっても大丈夫だと思われたわけですね。

小椋 銀行はそう思ってたみたいですが、実際にはこんなこともありました。留学から帰ってきたあと、ある週刊誌の記者が「70年代のホープの特集記事で小椋佳を取り上げたい」と銀行に打診してきました。銀行は了承したんですが、週刊誌発売の直前になって、70年代のホープの特集ではなく、一銀行員の副業に銀行側がきょうがくしている、的な刺激的なタイトルの記事だということが分かって、銀行は泡食っちゃったそうです。

結局、発売された週刊誌に載ったその記事は大した問題にはならなかったんですけど、取材に応じた重役の言葉が変なふうにわい曲して書かれていたため、その重役がすごく迷惑したんだそうです。広報室長に呼ばれて重役室に謝りに行きましたが、重役には「ご迷惑をおかけしました」とか言いながら、内心では「僕、何も悪いことしてないのになあ」とも思ってました。

で、そのあと人事部から「君どうするんだ。歌手を続けるのか、それとも銀行員に専念するのか」と問われました。僕も若かったんだなあ、「僕の歌作りは商売じゃありません、日記を書いているだけです。一人の銀行員が日記をつけていることをあなたはやめろって言えますか」って食ってかかりましてね。

それで結局、「テレビやラジオ、ステージへの出演など、人前に出るような仕事は一切しません。だけど、歌作りをやめろって言うなら銀行辞めます」って言ったんですよ。そしたら、その程度に抑えるならいいか、みたいな話になって(笑)。その後も僕を利用しようとはせず、歌をやめさせることもありませんでした。ずっと温かく無視してくれましたね。

——人前に出ないということですが、1976年にはNHKホールでコンサートをされていますね。

小椋 当時、マスコミさんからは僕が人前に出ないのは生意気だという話が随分出るようになっていまして。それである日突然、銀行の上の方から「君、一度だけでも人前に出た方がいいんじゃないか。NHKホールに出ないか」っていう話が下りてきました。人前に出ないという約束だったのに、銀行の方からコンサートを勧められるのは不思議だなと思いましたけど、「じゃあ1日だけコンサートやります」と応じて出させていただきました。

1976年、NHKホールでの初ステージの様子。ファーストシングル『しおさいの詩(うた)』や、一世を風靡(ふうび)した大ヒット曲『シクラメンのかほり』などを約3時間にわたって歌い上げた。

(後編はこちらから)

※この記事は、2021年8月19日放送「ラジオ深夜便」の「歌手引退・もういいかい」を再構成したものです。
(月刊誌『ラジオ深夜便』2021年12月号より)

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