「博多」という地名は古く、むしろ「福岡」という地名のほうが新しいのです。福岡という名は、1600(慶長5)年の“関ヶ原合戦”後、徳川家康からこの地を与えられた黒田家によって名づけられました。
黒田家は近江国(滋賀県)黒田庄の出身ですが、備前国(岡山県)福岡というところに住んでいました。黒田家はその後、姫路(兵庫県)や中津(大分県)などを転々としますが、福岡を忘れることができませんでした。
そこで与えられた土地を福岡と改称しよう、としました。これに対し、猛然と反対運動をおこしたのが博多の市民(おもに商人)たちです。
反対の理由は、
・博多は日本の古代からの国際交流の拠点であり、いってみれば日本の玄関である
・外交や貿易のための役所である「鴻臚館」も置かれていた
・平家がさらに博多をにぎやかにしたが、平家がほろびたあとも博多は栄えつづけた
・それは博多が国際港だからだ
・それを「福岡」という地名にかえるのはナットクできない
というものでした。
思わぬ反対におどろいた黒田家では、妥協策を出しました。
・地域内に那珂川という川がある
・この川の西方を「福岡」とし、東方をいままでどおり「博多」とする
・福岡は武士の町、博多は市民の町とする。つまり二都共存
新権力者黒田家も、歴史と伝統をかかげる住民パワーにはかなわなかったのです。おなじことが明治時代にもおこります。九州に鉄道が敷かれ「駅名をどうするか」という問題がおこりました。
“ふくおかだ”、“いや、はかただ”
とまっぷたつにわかれました。市議会の議題になり、投票になりました。伝えられるところでは、開票の結果は両案はピッタリ同数。
そこで議長の裁断によって、「駅名は“はかた”、市名は“ふくおか”とする」となったそうです。
新幹線の駅も「はかた」ですね。ぼくは、博多の住民にこういうパワーを植えつけたのは、平家一族だったと思います。“海の武士”であり、“海外貿易の一族”であった清盛たちのパワーは、けっして消えなかったのです。
(NHKウイークリーステラ 2012年3月2日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。